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Shepherd Moons 08


喜ぶべきなのか
それとも――







アスランはキラの子供らしい頬を優しく撫でる。
柔らかい手触りは昔と変わらない。
ただ、反応がないだけだ。
以前ならばアスランが頬に手を寄せれば、たとえ眠りの中にあってもその手にすり寄ってくる仕草を見せたのだが、目の前の少年はまるでアスランの手のぬくもりを忘れてしまったかのように、ただ静かに眠っている。
すり、と頬を寄せて微笑む姿は見ているだけで愛しさが募り、アスランはそんなキラの姿を見るのが大好きだった。
痛ましそうな眼差しを注ぎながら、細くまっすぐな髪に手をやる。
さらさらと手からこぼれ落ちていくそれは、大地のような亜麻色ではなく白銀の輝きに変わってしまった。
抜け落ちてしまった色素は戻らないのだろうか。
白髪になってしまった髪の色を見れば、キラがあの場所でどれほどの恐怖を抱えていたかわかる。
残されたデータを見る限りでも非人道的な行いに溢れる怒りを堪えることができなかった。
まるでモルモットのような扱い――いや、それ以下だ。
生き物として扱われていたようには思えないほどの残虐な実験。
幼い身体に与えられた陵辱は一度や二度ではなく。
無数に残る傷痕に治療の形跡が一つも見られなかったのだから、キラが生き残れたのは奇蹟に近い。
キラの心情を考えればどれだけ自分を責めても足りないが、それでもこうして目の前にキラがいるという事実が、かろうじてアスランの精神の均衡を保たせていた。

いつか目覚めるかもしれない。
その望みを捨てない限り、アスランは狂気に身を堕とさずにすむのだ。

ふっくらとした唇からは相変わらず規則正しい寝息が聞こえている。
3年前と変わらない寝姿。
穏やかで――誰よりも清らかで。
その身に受けた陵辱の欠片も見せないほど、安らかな表情。

「キラ…」

月にいた頃。
夜更かしが趣味のキラは、どう頑張ってもアスランより早く起きることができなくて。
誰かが起こすまで眠り続けるキラを起こすのは、常にアスランの役目だった。
怒ったり叩いたり宥めすかしてようやく起こしていたあの頃が懐かしい。
学校でもいつも居眠りしているから級友たちから『眠り姫』なんて不名誉なあだ名をつけられたりもしていたキラ。
そんな、どうあっても起きないキラに対して、アスランが悪戯を仕掛けるのも日常茶飯事で。
目覚めた時の慌てふためいた姿がとても可愛かったのを覚えている。

ふと、そんなことを思い出してアスランは眠るキラに視線を落とした。



『眠り姫は王子様のキスで目を覚ましました』



そんなことを言ってふざけてキスをしたのはいつだっただろうか。
おとぎ話の定番中の定番。
愛らしい舌を絡めるように唇を塞げば、すぐに呼吸困難になって飛びおきていた。
勿論その後恨みがましく睨まれたりもしたけれど、起きないほうが悪いと嘯いていた。
単なる子供同士の他愛無い悪戯。
あの頃は口付けの意味もよくわからず、そんな――大人が見れば目を瞠るような激しい口付けも、2人にとっては遊びの一環でしかなく。
今になって考えれば、あの頃はとんでもないことをしていたのだなと思うのだけれども、学力は人並み以上にあったけれど恋愛面にはまったく疎かった2人がそんな事情など知る術もない。
キスで目が覚めたら便利だね、という単純な理由。
結局単なるキスでは目が覚めないために、行為は知らずとエスカレートしていったのだけれど。
少なくとも、キラにとってはアスランのキスは十分目覚めの行為であったのだろう。
何しろ呼吸できなかったのだからキラとしても必死だ。

おとぎ話のような優しい口付け。

実際はそんなことで目が覚めたら苦労なんてしないのだけれど。

期待をしていたわけではなく、ただ触れたくて。
愛らしい唇に己のそれをそっと重ねた。
負担をかけないようにそれは触れるだけだったけれど、柔らかい感触は昔とまったく変わらなかった。

「キラ、朝だよ…」

懐かしさにそんなことを言えば、長い睫がふるりと揺れた。



「キ、ラ…?」



震える声で名を呼べば、ゆっくりとだが確実に開いていく瞼にアスランは目を見開いた。
声も出せずその様子を見守るアスランの背後で小さな音とともに扉が開いた。

「おっす、眠り姫の様子はど…」

瞬きすら忘れたアスランの変化に気付いたのは、最初に部屋に入ってきたディアッカで。
次いでニコルとイザークが姿を現したが、アスランの意識がそちらに向くことはなかった。

4対の眼差しの先で、閉ざされていた瞼から紫水晶の輝きが姿を見せる。
医師を呼ばなければという思考は、目の前に現れた菫色の輝きの前に消えうせた。
ぱちぱちと瞬きを繰り返す姿は記憶のものと変わらない。
不思議そうに首を傾げるあどけないしぐさ。
愛らしいと称されたその行動の一つ一つに、アスランの目から涙が零れる。

目覚める確率は低いと言われていた。
覚悟をしておくように、とも。
それでも。
どうあっても諦められなくて。
無駄だとわかっていても名を呼ばずにはいられなかった。

戻ってきてと。
キラの精神があの地獄に囚われているのなら、自分が名を呼ぶことで呼び戻すことができるのではないかと。
徹底した現実主義者のアスランらしからぬ言葉。
だが誰も笑ったりしなかった。
たとえどれほどわずかな可能性であろうとも、ゼロではない限りやってみる価値はあるのだから。



気配に気付いたのだろう。
菫色の瞳がアスランに注がれる。
言葉はない。
ただ静かに凝視しているだけだ。
軍の指定病院であるここを訪れるため、彼らはザフトの軍服に身を包んでいる。
見慣れない服装をしていることへの不審感か、それとも知らない人物がいることへの懐疑心か。

かすかに首を傾げた拍子に、白髪がはらりと頬にかかった。

「キラ…」

歓喜、安堵、懺悔。
様々な感情のこもった声で名前を呼べば。
愛らしい唇がかすかに動いた。



「お兄ちゃんたち……だれ?」


  • 07.07.25