Sub menu


緑夢 23


世間を騒がせた残虐な事件も、時の経過とともに静まっていった。
勿論完全に忘れられるわけではないのだが、実害のなかった非日常は繰り返される日常の中に埋没していくように、当事者以外の心から消えていく。

(こうしていつかは忘れられていく…)

窓の外では生徒たちの声。
明るい笑い声は、まるで数日前の悲劇など存在しなかったようで、キラは哀しくなる。
あの日の出来事。
それはキラから大切な友人を奪い、そして平穏な日々をも奪っていった。
表向きは何も変わらない。
だが、確実に変わってしまった自分と周囲を思えば、自然表情も暗くなる。

視線を上げれば未だに壊れたままの壁。
表向きは落雷による倒壊ということになっている。
それが周囲やマスコミを欺くための方便であることをキラは知っている。
あれは壊されたのだ。
たった一人の少年――いや、<BEAST>と呼ばれる人外の存在によって。

「カナード…」

呟いたのは友人の名前。
だが、彼はもういない。
精神まで喰われてしまったのだとアスランは言った。

<BEAST>とは、人間が変異したもの。
人間であって人間でないもの。
人類の中に潜む人間ならざる人たちのこと。
ウイルス性の病原菌のようなもので、感染した場合の致死率は90パーセント以上。
運良く生き残れたものが<BEAST>化するのだという。
カナードは3年前の遭難事件の際にウイルスに感染していたのだ。
ウイルスの発生源は不明。治療方法も予防方法も一切なし。
感染すれば死。もしくは<BEAST>化。
どちらにしろ、感染した時点で人間としての生命は絶たれるのだ。

魔女狩りの時代がくると言っていたラスティ。
その言葉は誇張でも比喩でもなく、紛れもない現実だった。
人間の中に人間ではない生き物が紛れている。
外見からの判断は不可能。
人間よりも強い身体能力と、再生能力。
これがマスコミに知れれば大パニックになることは間違いない。
だからラスティは殺されてしまったのだろうか。
そして――カナードも。

カナードは事故死として発表された。
夜間に落雷が校舎を直撃し、偶然学校に残っていた生徒会長がそれに巻き込まれて死亡。
殺人事件の現場となった学校だけにマスコミの取材も多かったが、自然災害ともなれば報道もすぐに消えていった。
すでに人々はカナードの死を忘れたかのように日常を取り戻している。
だが、キラは忘れることなどできない。
おそらくこれから先もずっと。

どこを探してもあの優しい友人の姿はもういないのだと信じたくなくて、キラは足早に校舎へと入った。





   ◇◆◇   ◇◆◇





キラ、と。
優しく呼んでくれる声が好きだった。
成績優秀、品行方正。
教師からの信頼も篤く、非の打ち所のない優等生。
自然が好きで、ふらりといなくなると大抵裏庭の木の上にいて。
生徒会長が授業さぼったら駄目じゃないかと咎めれば、まったく悪びれない笑顔を浮かべる。
誰からも信頼され、誰からも好かれていたカナード。
そんな彼が自分を特別に可愛がってくれていたことは、正直嬉しかった。
彼のように特別な感情を抱いていたわけではないけれど、それでもキラにとってカナードは誰よりも大切な友人だった。
こうして二度と会えなくなってしまうことなど、考えたこともなかった。

カツン、と静かな室内に軽い足音が響く。
放課後の教室、しかも特別教室棟であれば人影などなく。
ましてや先日事故で壊れたままの教室は立ち入り禁止となっていて、あえて足を踏み入れる不届き者などいない。
ビニールシートに覆われた教室。
あの夜の惨劇の痕跡はどこにも見られない。
随分と手馴れていたアスランと、一緒にいたカガリという女性。
彼らは一体何者なのだろう。
気にならないわけではないが、今はそれどころではない。
目の前には崩れた壁。
ここで彼は亡くなったのだ。
キラの目の前で。

「ごめんね…」

あの時キラが拒まなければカナードはまだ生きていただろうか。
人間を襲うことなどなかっただろうか。
キラにはわからない。

『付き合ってほしい』

そう言われたあの日、答えられなかったキラの正直な想い。
愛情ではない。けれど単なる友情と呼ぶのも違う。
信頼よりももっと深い感情が、確かにキラの中にはあった。

『嫌われてるわけじゃないよな?』

おどけてみせた表情。
それでも瞳の奥には傷ついた光があった。
あの日は気づくことができなかったけれど。

いつだって優しくて、自分の感情を他人にぶつけたりしなかったカナードが唯一キラに告げた本心。
決して適当な返事をしたわけではない。
けれど、もっと真剣に向き合うべきだったのではないだろうか。

「ごめんね、カナード」

応えられなかった気持ち。
恋ではないけれど。それでも。

「大好きだったよ…」

伏せた瞳から涙が頬を伝う。
それを拭うように風が頬を撫で、青いシートを揺らしていく。



――キラ



ふわりと舞い込んだ風。
懐かしい声が自分を呼んだように聞こえた。


  • 08.06.27