「――では、間違いなく確かなんですね!?」
受話器を握る手が震えている。
動揺していたせいか手が机上にあった書類にぶつかり、雪崩となって床へと落ちていった。
だが、そんなことを気にしていられる状況ではない。
突然の来訪者。告げられた肩書き。
噂には聞いていたけれど、実際に目にするのは初めてだった。
世界でも100人いるかいないかという特殊な彼ら。
組織の末端に位置する男には、まさに雲上の相手だった。
だからこそ、先ほど現れた人物が信じられず、こうして調べられる限り上層部の人間に確認の電話をしているのだが。
告げられた内容は一言――YES。
間違いないのだ。
受話器の向こうから聞こえてくる声に、見えていないにも関わらず男はぺこぺこと頭を下げる。
「いえ、そういうわけでは…。ただ…その…とてもそんな風には見えないもので…」
『――』
「はい。勿論全面的に協力させていただきます」
その言葉を言い終えると同時に切れた通話にしばし呆然としながらも、男はすぐに受話器を戻した。
振り返ると同時に扉が開いて部下が姿を見せる。
何かを言おうとする部下の横を素早くすり抜ける男に、部下が目を丸くする。
この国立生物学研究所の所長という肩書きを持つ上司は、優秀ではあるが常にマイペースで今のように急いでいるという姿を見たことがなかった。
ましてやあのように血相を変えた姿など問題外である。
何があったのだろう。
部下は室内に散らばった書類を広いながら首を傾げた。
用意された部屋に彼はいた。
4人掛けの大きなソファーに座ろうともせず窓の外を眺めているのは、少年とも青年ともつかないまだ若い男性。
壁際に身を置いているのは警戒を怠らないからだろうか。
ゆっくりと向けられる視線は、少年が持つものにしては似つかわしくないほどに鋭い。
だが、彼の経歴を知ればそれも当然だと思う。
「身元確認はすみましたか」
問いかけというよりは確認の声に、所長は呑まれたように頷いた。
まだ十代の若者。
それなのに圧倒されるほどの雰囲気を持っているのは、彼がそれなりの場数を経験した人間だからであろうか。
驚くほど端整な顔立ちは無表情だと更にそれを際立たせて、まるで精巧な機械のように思える。
翡翠色の瞳に射竦められたように、所長は汗を拭う。
外はうだるような暑さが続いているが、研究所は冷暖房完備で常に快適な温度に設定されているため外気は伝わってこない。
彼の額に浮かぶのは暑さとは違うものだ。
「申し訳ありません。なにぶん本物のハンターが直接こちらに来るということは前例がないものでして…」
「非公式なもので――これを」
言いながら懐から取り出したのは小さな瓶。
片手で握れるほどの小さなそれには、赤い液体が入っていた。
それが何か所長にはよく分かっていた。
ここは国立生物学研究所。
エイズの専門機関であり、国内での血液検査のデータがすべて集められてくる場所でもある。
そして、その実態も――。
「至急これを調べてもらいたい」
「ビースト、の血ですか?」
彼が直接持参するということは、これがそれだけ貴重だということなのだろうか。
それとも緊急を要する、とか。
だが、青年は首を振った。
「疑いがある」
ハンターである彼が特定できない人物の血液なのだろう、おそらく。
どういう経由でそれを摂取してきたか気になったが、彼にそれを訊ねる権限は与えられていない。
ハンターとたかが一機関の所長とでは、立場が天と地ほども違う。
「遺伝子レベルでビースト検査をお願いしたい」
告げられた言葉に対して拒否権はない。
彼に許されることは頷くことだけだ。
◇◆◇ ◇◆◇
「ラスティが?」
長い勤務時間を終えてようやくディアッカが戻ってきたのは、ラスティが帰ってから6時間後だった。
それほど遅くならないはずだから待っていたらとカリダは勧めたのだが、用事があるからと帰っていったラスティに、待っていなくてよかったと心底思った。
あまりの顔色の悪さに心配がないと言ったら嘘になるが、彼の仕事を邪魔するつもりはないし、何よりもディアッカがいつ帰ってくるか本当にわからなかったのだから、無理矢理引き止めるのも申し訳ない。
結局早く帰ると言っていたディアッカが帰ってきたのは深夜に近い時間だったのだから、結果として待たなくて正解だったのだが。
「あのさ…」
「何だ」
「ラスティって、どこか身体悪くしてたりとかする?」
「んなわけあるか。あいつには病原菌すら近寄らん」
キラがラスティと会うのは久しぶりだったが、もしかしたらディアッカは自分よりも頻繁に会っていたかもしれないと思った問いかけだったが、返ってきたのは無情とも言える言葉で。
その言葉に安堵すると同時に、ではどうしてあんなに弱々しいオーラを放っていたのか不安になる。
「ラスティ、すっごくやつれてたよ」
「あー。あいつエイズの検査するとか言って外国に飛んでったくらいだからな。多分碌に飯も食わずに働いてたんだろうよ」
「エイズ…」
「んーあー、エイズだか何だか感染病とか言ってたな確か。仕事に夢中になってオーバーワークしちまったんじゃねえの」
「ならいいんだけど…」
仕事大好き人間のラスティらしい言葉を聞けば、少しは安心する。
だが、あのどこか張り詰めた空気と思い悩んだ様子は、それだけで忘れることはできないものだったが。
「そういえばラスティがね…」
「悪いキラ、ちょっと後にしてもらってもいいか。さすがにキツイわ…」
スーツを脱ぎ捨てるなりベッドに横になったディアッカの顔には疲労の色が濃く出ている。
ここ連日働きづめなのだから無理もない。
折角もぎ取った休暇すら、事件の一言で取り消されてしまうのだから、さすがの体力自慢のディアッカも体力の限界なのだろう。
「あぁ、うん。じゃあまた後でいいや」
ラスティからの預かり物を渡そうと思ったのだが、この様子ではすぐに見てもらえるとは思えない。
「悪いな」
ひらひらと手を振ってはいるものの瞼は今にも閉じてしまいそうで、キラはお休みなさいと声をかけてから部屋を後にした。
子羊が第四の封印を解いたとき、
第四の生き物が「きたれ」という声を
わたしは聞いた。
そこで見ていると、見よ、
青白い馬が出てきた。
そして、それに乗っている者の名を「死」といい、
それに黄泉が従っていた。
彼らには、地の四分の一を支配する権威、
および、つるぎと、ききんと、死と、
地の獣らとによって、人を殺す権威とが
与えられた。郊外の木々に囲まれた広大な森の中にそれはあった。
広い敷地をぐるりと取り囲む高い塀。
その奥に見える、真新しい病院のような建物。
それが国立生物学研究所である。
一見すると普通の研究施設にしか見えないそれ。
ニュースソースがラスティでなければ信じられないことではある。
仕事に関しては真面目なラスティ。
いざという時には誰よりも頼りになる情報をくれる彼だからこそ無条件で信じられるのだが、これがどこかからのタレコミだとしたら一蹴して終わりだろう。
巨額を投資して作られたというこの研究機関には、国の認可を受けているという理由もあるのだろうが最新鋭の設備が揃っているということで有名だ。
国立生物学研究所は所謂エイズの研究センターで、国民のおよそ80%の血液がここに集められ、検査・研究をされている。
「80%? そりゃまた随分多くないか?」
「会社、学校等の検診。警察でも年に一度の健康診断の時に採血されてるだろ。なんらかの組織下にある人間はすべて採血されてるって寸法だ」
一機関に集められているには膨大な量のデータにイザークが眉を顰めれば、返ってきたのは当然とでも言いたげなディアッカの声で。
確かに国民は何らかの組織の下に置かれている者がほとんどだ。
生まれてから一度も他者と関わったことがない人間はいないし、一度も病院に行ったことのない人間も、通常では考えられない。
だが、それらの血液が一箇所に集められているという事実を知らなかったイザークにしてみれば信じられないと思うのも無理のないことだ。
(おかしい)
果たしてエイズの研究というだけで、そこまでする必要があるのだろうか。
全国民の血液を採集しているということは、おそらくイザークやディアッカのそれも当然あるわけで。
だが、イザークはその事実を一切知らされていない。
通常エイズ検査といえば本人の承諾なしには行われないものだ。
そうなればこの研究所の主旨がどこにあるのか余計わからなくなる。
国立生物学研究所の背後にいるのは政治家であり、国そのものだ。
おそらく国民の誰もが知らないだろうこの事実。
一体国は何を考えているのだろうか。
「――何だ、あの車は?」
怪訝そうな声にディアッカが視線を移せば、研究所の入口に1台の外車が停止したところだった。
真っ赤なスポーツカー。
山道を走るには不似合いだ。
「へえ、フェラーリF40じゃん。まだ乗ってる奴いたんだ。カッコイイね」
「そういう意味ではない! 何の用があってここに来たかって言ってるんだ!!」
「さあてね。本人に聞いてみるしかないんじゃないの」
言いながら覗いた双眼鏡のレンズに映った姿に、ディアッカはわずかに眉を顰める。
警備員に鷹揚な態度を見せている男の姿に見覚えがあった。
(あいつ…)
キラの通う学校で起きた事件。
その時の野次馬の中にいた、場違いな少年。
端整な顔立ちと鋭い視線。
ほんの一瞬見ただけだが、これほど強い印象を与える人物をディアッカが見忘れるはずはない。
ゆっくりと開いたゲージをくぐっていく赤い車の後ろ姿を、ディアッカは睨むように見つめていた。
◇◆◇ ◇◆◇
研究室の一番奥、主任以上の人間は立入禁止の部屋に通されたアスランは、所長が示す顕微鏡のモニターを顔色を変えずに見つめていた。
「ご覧の通り、健康な人間の細胞です。ビーストウイルスは発見されませんでした」
「遺伝子は?」
「ビースト特有の遺伝子配列は存在しません。逆に、ビースト化した人間には存在しない人間特有の遺伝子配列は存在しています」
次々と映し出される映像は、確かに今まで見たものとは違っていて、むしろ見慣れたものと大差ないように見えた。
表情を変えないアスランに所長は言葉を続ける。
「この血液の持ち主は、ホモサピエンスに間違いありません」
「…わかった」
(違ったか)
彼らではないということが判明したことはアスランを少なからず安堵させたが、だがそうなると有力な容疑者が消えたという事実は大きい。
一般人が彼らに遭遇する確率はとても低い。
それは彼らの個体数が人間のそれに比べて圧倒的に少ないということもあるし、彼らが極力人間と同じように振舞っているからでもある。
飛行機事故に遭遇するよりも少ない確率だというのに、アスランがこの国に来てから起きた事件に、少なくとも2つは彼が関与していた。
――いや、事件の現場が彼の身近な場所だったというだけだが。
彼らが近くに潜伏していると思った。
そして一番怪しいのが彼だった。
だからこそ多少無茶をしても血液を採取したのだが。
彼がシロだったとすれば、自分が彼に取った行動は…。
「他に何か?」
沈黙したままのアスランをどう捉えたのか、所長が伺うように声をかけてきた。
「いや結構」
今ここで考えても仕方のないことに気を取られる必要はないだろう。
結論がわかればここにいる必要はない。
アスランはサングラスをかけると部屋を後にした。
車の前に見知らぬ人物が2人いる。
銀色の髪の男性と、金色の髪の男性。
どちらも油断のならない人物だと、立ち姿だけで判断する。
どうやって施設の中に入ってきたのかは不明だが、おそらく警備員の制止を無視できるだけの権力のある組織に与している人間だろう。
そう考えて思い出した。
自分を敵視するかのような眼差しを向ける男の背後に控えている金髪の男性の顔は、そういえば以前に見たことがあった。
深夜の現場、そして翌朝の学校でも会った。
キラの従兄だという刑事。
確かディアッカとか言っていた。
ということは、目の前の男も同業者か。
警察手帳を見せれば、確かにゲートをくぐることは容易いだろう。
もっともそこから中へは入れないだろうが。
「あ…と、悪いね。こういう者なんだけどさ、ちょっと話聞かせてくんないかな」
軽い口調でディアッカが警察手帳を提示してみせれば、翡翠色の瞳がほんの少しだけ眇められた。
銀髪の男が口を閉ざしているのは、どうやらディアッカの方が職質に向いていると判断したためだろう。
確かにアスランが見るだけでもこちらの男性は少々気が短そうだ。
こういうタイプを煽って怒らせるのは得意だが、今はそんなことをしている場合ではない。
「ここへはどういう目的で?」
「エイズの治療ですよ」
ぴく、と銀髪の男性の眉が跳ね上がった。
予想通り短気だ。
一方ディアッカの方はもう少し頭が回るらしい。
アスランの言葉が面白くないのは同様だろうに、それでも表情には欠片も見せないあたり、おそらくこちらの方が曲者だろうと推察できる。
「ここではエイズの治療は行っていないはずなんだけどね」
「おや、そうでしたか」
「君、一週間前の殺人現場にいたね」
「人違いでしょう」
くすり、とアスランが笑う。
それはまるで嘲笑のようで。
扉を開けようとした手を、褐色の手が掴んだ。
見上げた先にあるのは紫色のきつい眼差し。
「署まで一緒に来てもらおうか」
アスランを見つけたあたり着眼点は悪くない。
だが、相手が悪かった。
いくら高校生とは言え、一介の刑事1人に威圧されるようなアスランではない。
ディアッカの腕を振り払い、アスランは瞳を細める。
「逮捕状でも?」
「――っ」
「まあ、あっても無駄だとは思いますけどね」
「?!」
公共の機関に属している者は対処が楽だ。
こう言えば無理強いはできないし、また彼らの最大のカードも自分には役に立たないことを知るだろう。
アスランは車に乗り込み、呆然としている2人を尻目に森へと消えていった。
「何だ…あの小僧」
残されたイザークとディアッカは当然面白くない。
あそこまできっぱりと断言されては無理強いも出来ない。
だが、自分よりもはるかに年下だとわかる少年に簡単にあしらわれることなど今までなかった。
妙に場慣れしているように見えるし、警察の肩書きにも何の反応も示さなかった。
あっさり帰したのは場所が悪かったからだ。
ここは国が所有している施設の内部で、本来なら警察の介入ができない場所の一つでもある。
ましてや相手は不審者でも何でもないただの少年で、容疑者でも何でもないのだから任意の事情聴取以外取れる手段はない。
それを拒否されたところで公務執行妨害を適用できるわけでもなく。
少々先走りすぎたようだ。
「どうするつもりだ?」
「何、車のナンバーは控えてあるんだ。じっくり調べようぜ。あの坊やの正体とやらをよ」
あの眼差し、あの態度。
彼が一般人のはずはないのだから。
- 07.12.11