血。
緑。
瞳孔の開いた緑の瞳。
「!!」
ふ、と意識が戻された途端、キラの口から声にならない悲鳴が漏れた。
どうしていいかわからない。
逃げたらいいのか泣いたらいいのか。
それとも狂えばいいのか。
「キラ!!」
恐慌状態に陥ったキラの意識を現実に引き戻したのは、よく知った低い声。
端整な顔が不安そうに自分を見下ろしている。
気遣うような窺うような優しい紫の瞳。
緑ではない。
「俺がわかるか?」
焦点が合ってきた視線を受け止め、カナードが問う。
とても言葉にならなくてこくんと頷くのが精一杯だったが、それだけで安堵してくれたらしい。
握られていた手をゆっくりと離された。
「怪我は?」
「だい、じょうぶ」
声を絞り出すと、喉の奥がひりひりと痛んだ。
そういえば悲鳴を上げたかもしれない。
おぼろげなので自信はないが。
喉も渇いている、らしい。
大量の汗をかいているから水分が足りないのだろう。
「死体は? …怪物は?」
「?」
視線を巡らせてみるものの、先程の死体は影も形も見えない。
「それからあの…」
強いオーラを身に纏ったあの男。
あのままキラを見逃すとは思えなかったけれど。
先程の惨状を思い出してぞくりと身体を震わせたキラの様子に気付いたのか、強く腕を引かれて強引にその場から離された。
乱暴に見える行動に顔を上げると、ようやく冷静になった頭が状況を理解してきた。
「え…何、この煙?」
「話は後だ。走れるな」
白い煙と何かが焼ける臭い。
ガソリンだろうか、かすかに油の臭いがする。
何が起きているのだろうか…。
「山火事だ。爆発音がしたから何かの事故だと思うが」
無防備に煙を吸い込んでしまい咳き込んだキラを庇うように抱き込みながら、カナードはキャンプ場へと走る。
走りながら、キラは忘れられない出来事を確認するように背後を振り返る。
木の上から見える白い煙。
炎が見えないということは被害は大きくないのだろうか。
立ち上る煙と、ゆらめくオーラ。
「森が…泣いてる」
山火事はほんの少しの森を焼いただけで鎮火した。
そして、焼け跡から一体の惨殺死体が発見されたと報道されたのは、それから翌日のことだった。
◇◆◇ ◇◆◇
「最近、世の中おかしいったら」
世紀末ねぇとカリダは洗濯物を干しながら呟いた。
近所の公園で惨殺死体が見つかったと思いきや、その数日後には息子が出かけたキャンプ場で山火事。
そして焼け跡から発見された惨殺死体。
誰が何の目的で殺人を犯しているのかわからないが、こう連続して身近で猟奇的な事件が起これば気にならないわけがない。
尤も我が家はいつもと同じく平和なのだけれど。
もうすぐ昼になるというのに、未だにパジャマ姿のままの甥の姿に、カリダは小さくため息をついた。
「ディアッカ。いつまでそんな格好しているの。早く着替えてご飯食べなさい」
ディアッカはカリダの姉の息子なのだが、海外出張中のディアッカの両親に頼まれて現在はヤマト家に居候中である。
成人も就職もしている一人前の大人なのだから1人暮らしでも構わないと言う息子の意見を、エルスマン夫妻は笑顔で却下した。
すべてにおいて器用な息子ではあるが、こと家事能力が伴っていないことと致命的に女癖が悪いことを両親は熟知していた。
放っておけば掃除もしない洗濯もしない、家に女性は連れ込み放題という無法地帯になるとわかっていて1人暮らしを許可する親はいない。
ディアッカは不満そうだったが、カリダは大賛成だった。
何しろカリダの夫ハルマはエルスマン夫妻と同じく海外勤務で、家にはカリダと息子のキラの二人暮し。
小柄なキラでは男手にはやや不安が残り、その点ディアッカは刑事なだけにいざという時頼りになる。
更に息子のキラもディアッカを実の兄のように慕っていることもあり、反対する理由はなかった。
「小母さん、勘弁してよ。俺が帰ってきたの朝の4時だぜ。このヤマの捜査でさ」
「はいはい。だから元気の出るご飯用意してあげたわよ。さっさと食べてちょうだい」
にっこりと笑顔で布団を剥ぎ取られてしまえばそれ以上反論することもできない。
息子のキラと同様おっとりと朗らかなカリダには、さすがのディアッカも調子が狂ってしまうのだ。
まあ、若く美しい人妻に甲斐甲斐しく世話をしてもらうのは大歓迎なのだが。
「ディアッカー」
「はいはーい」
再度促され、ディアッカは観念したようにベッドから起き出した。
◇◆◇ ◇◆◇
「ただいまー」
ディアッカが朝食兼昼食を食べ終えて少しした頃、学校行事で2泊3日でキャンプに行っていたヤマト家の長男が帰宅してきた。
キャンプ場の近くで家事があった時は中止になるかと思ったのだが、どうやら場所を移動して続行されたらしい。
管轄外だが担当の事件と類似点があるという理由で現場に赴いたディアッカは、キャンプ場でキラと出会って驚いた。
飼い主の帰宅にいち早く気付いた愛猫がディアッカの足元をすり抜けてキラへと駆け寄ってくる。
「ただいま、トリィ。いい子にしてた?」
足元にすり寄ってくる愛猫の『トリィ』を抱き上げると、トリィはごろごろと喉を鳴らしてご満悦だ。
「その名前、何とかならねえの?」
「何で?」
不機嫌そうなディアッカにキラは首を傾げる。
「猫なのに、何で名前がトリィなわけ?」
「だってこの子、鳥が大好きなんだよ。いっつも目で追ってるし」
鳥が好きだからトリィ。
安直なネーミングセンスだが、猫の名前が鳥とは如何なものだろう。
むしろ鳥が好きというよりは、猫の狩猟本能というやつではないだろうか。
「で、どうだった。キャンプ」
「も、さんざん」
思い出したのか眉を曇らせたキラに、あぁやはりとため息をつく。
同年代の少年達と比べてもキラの性根は優しい。
自分の泊まっていたキャンプ場で死体が発見されたと聞いた時のキラの表情を思えば、無理やりにでも連れて帰ればよかったとつくづく思う。
「…ねえ、ディアッカ。死体はよく見るよね」
「坊主や葬儀屋ほどじゃねーけどな」
「あのさ、死体が動くことある?」
言われた言葉を理解するのに数秒。
ふざけているのかと思ったが、キラがこういう悪ふざけをしたことは今までに一度もない。
顔を窺えば困ったような不安そうな表情。
とりあえずふざけているわけではないらしいので、ディアッカもディアッカなりに真面目に返答する。
「動いたら死体じゃないぞ」
「でも、顔が半分ないんだよ? 身体だってボロボロで、内臓出てて、目が…緑色に光って…」
言いながら泣きそうに顔を歪めてしまったキラ。
宥めるように頭を撫でると、安心したのだろうかわずかにだが表情が和らいだ。
こういう素直なところが可愛くて仕方ない。
外見だけでなく中身も可愛らしいとは、これで性別が女性だったなら将来が楽しみなところだったのだが。
女性よりも男性から人気が高いと聞いて、少々複雑なディアッカである。
「何だ? 怖い夢でも見たか?」
「夢…なのかなぁ…」
夢にしてはリアルなんだけど、と呟くキラは自分でもよくわからなくなっているらしい。
要約するとキャンプ場で動く死体を見たらしいのだが、現場が特定できずしかも死体も見つからないため、夢か現実か判断できないようだ。
夢なんだろうということで無理やり納得したらしいキラが風呂に入るため歩いていく後ろ姿を見送ったディアッカは、ふとキラの足に目が止まった。
「キラ。お前、足どうした?」
「え?」
言われてディアッカが指差すまま自分の足首へと視線を向け、それが凍りついた。
白く細い足。
その左の足首にくっきりとついている手形の痣。
それは、あの夜動く死体に掴まれた場所だった。
(夢じゃ…ない?)
- 07.09.26