古い建物は嫌いではない。
石造りの建物も長い年月で踏み鳴らされた丸みを帯びた石床も、年季を感じさせる木製の家具も、この神気臭い空気さえなければねぐらとしては上等だと判断しただろう。
神の加護が満ちる神殿は悪魔にとって鬼門だ。
神気は悪魔の力を弱らせる。
「でも、僕には効かないけどね」
淫魔という悪魔としては低級に属するキラだが、潜在する魔力は上級悪魔にひけを取らないし、知能も決して低くない。
望めば上級悪魔に加わることも可能だろう。
事実キラの主は相応の地位にいる悪魔だし、その主からも見合った地位につけと催促されているのだから。
下級悪魔のままでいるのは、偏にキラ本人の意思だ。
物音ひとつしない教会の奥の間。
そこは通常神父が居住地として使用している場所で、本日新しく赴任してきた神父の新しい住処だ。
小さなキッチンとリビング、そして寝室。
贅沢を抑えた部屋にはサイドテーブルとベッドのみ。
部屋を見渡せば最低限必要な調度品のみで殺風景この上ない。
ベッドで眠っているのは若い神父だ。
赴任してきた当日だから疲れているのだろうか、ぐっすりと眠る姿は室内に姿を現したキラの気配にすら気づいていないようだった。
神気に満ちた空気は快適とは言えないが、護符が貼られていないだけマシなのかもしれない。
眠る姿は無防備そのもの。
この村に現れる夢魔の存在を知っていながら護符の1枚も貼らないばかりか、常に胸元を飾っているキラにとっては忌々しいことこの上ないロザリオすらサイドテーブルの上に放置されたままだ。
油断しているのだろう、それとも…。
どちらにせよいい度胸だということは間違いない。
「ふうん…」
キラの紫瞳がす、と眇められる。
下手な悪あがきはそれはそれで面白くないが、こうまで無策なのも気にいらない。
寺院の神父にとって淫魔は警戒するに値しないとでも言われているようではないか。
冷ややかな視線が寝台の人物へと注がれる。
宵闇の髪、白皙の美貌。
外見だけならキラの好み。
それこそ今までに出会った誰よりも。
神父でなければ思い切り可愛がってお気に入りの玩具として至上の悦楽を与えてあげたのに。
勿体ない、とキラは呟く。
初めて見た美貌。
もしかしたら主よりもキラの好みだというのに、彼が神のものだということが惜しまれる。
淫魔は他者の精気を糧にして生きている。
特に人間の精気でなければならないというわけではないし、事実キラが好んで摂取している精気は主のものだ。
人間を狙うのは餌というよりも退屈しのぎがほとんどだ。
この村に来た時も特に空腹というわけではなく、ほんとうに何気なく寄ってみただけなのだ。
この村にはキラ好みの人間が多い。
今までの若者然り、目の前の神父然り。
このまま殺してしまうのは正直惜しい。
この美しさならば極上の精気を持っているだろう。
神父に手を出すなんて悪食だと起こられるだろうか。
それとも穢れなき神父を堕としたとほめられるだろうか。
どちらでもいい。
かすかに開いた唇は規則的な寝息を繰り返している。
近づき、そっと息を吹きかけてみる。反応はない。
どうやら媚薬は効いているようだと、小さくほくそ笑んだ。
キラの身体からは人間を魅了する媚薬が香っている。
相手によって催眠・催淫・混乱をもたらすその効能は、キラ自身の意志で自在に変化する。
意図して使ったのは数えるほど。余程のことがない限りキラは視線1つで獲物を手に入れることができるから、実際に己の能力を使ったことはほとんどない。
キラに備わった特殊な能力。
果たしてそれが神父に効くかは微妙なところだったのだが、こうして見る限りは問題なさそうだ。
「やっぱり綺麗だなぁ」
しばらく観察してみても起きる気配はない。
ちょっとだけ、と味見のつもりで口付ける。
かすかに触れるぬくもり。それなのに背筋をぞくりと官能が這い上がっていく。
やっぱり極上だ。
触れるだけでこれならば、もっと深く口付ければどうなるのだろうか。
実際にこの身体に触れて互いの熱を溶け合わせれば、どれだけイイのだろうか。
食事だけでなく色々楽しめそうだ。
もう少しだけ、再び眠る神父の唇に己のそれを重ねようとして。
いきなり身体がと反転した。
「え?」
「随分大胆な誘いじゃないか」
背に柔らかいシーツの感触。
何が起こったかわからなかった。
白い頬に触れようと伸ばした手が自分よりも大きなそれに掴まれ、引き寄せられたと感じた時には、目の前には鋭い眼差し。
「お前が夢魔か」
見惚れるほど綺麗な翡翠が、吐息が触れる距離にあった。
- 08.11.20