おそらくは想像もしていなかったのだろう。
マリューの温かい眼差しと優しい言葉に、キラの目から涙が零れる。
菫色の瞳から流れる涙は純粋な彼女の本質そのままに綺麗で、堪えきれずに漏れる嗚咽はそれまでの彼女の心痛を現しているようで、ひどく痛々しく聞こえた。
これほどに苦しませてしまった少女を慰めてあげたくても、捕虜となった自分が下手に動こうものなら再びザフト兵を刺激してしまうだろう。
目の前で泣きじゃくる少女にどうすることもできなくて痛ましそうに眉を顰めたその先で、キラの細い肩がそっと抱き寄せられた。
「キラ…キラ。もう大丈夫だから」
「う…っ……。アス……ッ」
大切な大切な宝物のように肩を抱きキラの耳元で優しく囁く少年は、それまで自分達に射殺さんばかりの視線を向けていた人物と同一人物だとは思えない。
幼馴染というだけでは説明つかない親密さ。
2人の背後で同じく赤いパイロットスーツに身を包んだ少年達が呆れたような、それでいてどこか安心したような表情を浮かべているのに気付いたマリューは、自分がどれだけ罪深いことをしていたか改めて痛感させられた。
すべてのことからキラを守ろうという決意を感じさせるアスラン。
何もかも委ねきっているキラ。
誰も侵すことのできない深い絆がそこにあった。
親友と戦わざるをえなかったキラの心境をわかっていたつもりではあったが、実際に目の前で2人の絆の強さを見せ付けられた友人達もまた、マリューと同様に自分達の認識の甘さを思い知らされていた。
キラが敵対していたアスラン・ザラという人物は、キラにとって単なる幼馴染ではなかった。
正規の軍人ですら避けたいと願う相手と戦わなければいけなかったキラがどれだけ傷ついていたか、泣きじゃくるキラを見れば明らかだ。
もし、自分が恋人を討てと言われたらどうしていただろうか。
トールは隣に立つミリアリアを見る。
年齢よりも大人びているが、だが時折見せる無邪気さがひどく可愛くて、うっかり者の自分には出来すぎるぐらいの恋人。
そんな彼女と離れ離れになって、ようやく再会した時には敵同士で、友人を守るには彼女と戦わなければならないのだとしたら、一体自分はどうするだろう。
恋人も友人も秤にかける対象ではない。
どちらもかけがえのないもので、どちらも自分にとっては大切だ。
だが、どうしても選ばなければいけないというのなら…。
苦渋の決断を迫られるが、答えは決まっている。
後悔は勿論するだろう。
だが、それでも選ぶべき道は1つしかない。
だから、トールにはキラを責める気持ちはなかった。
自分がミリアリアを選ぶように、キラがアスランを選んだように、どうしても譲れない状況というのは存在するのだから。
何も説明がなかったことが寂しくないと言ったら嘘になるけれど。
その原因は自分達にもあるのだということはわかっている。
今はただキラが1人でいないことが嬉しかった。
アークエンジェルでは孤立してしまっていたキラ。
だが、今ではキラの隣にはアスランがいる。
支えてくれる仲間もいる。
何よりもキラが幸せそうだ。
それが本当に嬉しかった。
安心して気が緩んだのだろう。
それとも詰られると覚悟していたのに思いもかけず優しい言葉をかけられたことが原因かもしれない。
とにかく自分で思っていたよりも涙腺はゆるくなっていたようで、涙を止めるには意外なほど努力が必要だった。
優しく抱きしめてくれる手がひどく暖かくて、向けられる眼差しが優しくて、一旦治まりかけたはずなのに気がつけばじんわりと目元が熱くなってしまうのは、もうどうしようもないのかもしれない。
だって――嬉しいのだ。
もう一度こうやって彼らに会えることが。
彼らを守ることができたのが。
思い返してもあまりいい思い出のない艦ではあったけれど、この艦に乗艦しなければヘリオポリスと運命を共にしていただろうことを考えれば、強引な手段ではあったがマリューに連れられてきたことは感謝しなければならない。
人手が少なくて大変だろうに、自分が勝手に救助してきた民間人を滞在させることを許可してくれた。
その結果救えた命も少なくない。
何よりも、この艦にいなければアスランとこうして一緒にいることはなかったのだ。
抱きしめられる腕のぬくもりに、ひどく安心する。
気遣わしそうに覗き込まれる碧の瞳が、頬に触れてくる繊細な指の感触が、とても好きだ。
家族とも友人とも違う、この感情。
あのまま離れていたら、きっと気付くことはなかっただろう。
それを思えば、今までに自分の身に起こった辛い出来事全てを許容できる――とはさすがに言い切れないまでも、幸福になるにはそれなりの痛みを伴わないといけないのかもしれないと思うことはできた。
頬に触れるぬくもりに無意識にすり寄ってしまえば、目の前の碧の瞳が嬉しそうに眇められる。
それにふんわりと微笑もうとして――ようやくここには自分達以外の人間が大勢いるのだということに気付いた。
甘えているといえばそれまでだが、だが時と場所すら忘れてしまった自分の短絡思考に、涙さえ一瞬で止まってしまう。
ザフトの人達にとっては日常的ともいえる行動だが、アークエンジェルの面々には初めて見る光景で、ふと視線を向ければ面白そうに笑みを浮かべているフラガ以外、やはり皆呆気に取られたような複雑な表情をしている。
救いを求めるように背後の友人を振り返れば、やはりそこにも肩を震わせて笑うディアッカと、呆れたような表情のイザーク、そして困ったように苦笑しているニコルの姿があった。
慌ててアスランの腕から抜け出すと、それが意外なことだったかのように首を傾げるアスランの姿に、とうとう堪えきれなくなったディアッカの爆笑が聞こえてきた。
周囲からもくすくすと忍び笑いが漏れる中、キラはそれに気付かないフリをして懐かしい友人へと視線を向けようとして――通路から聞こえてくる声に意識を奪われた。
『トリイ!』
ばさり、と聞こえる人工的な翼の音。
軽重力の艦内を優雅に飛ぶ姿に、キラの目が釘付けになる。
「ト…リイ…?」
『トリイ!』
驚愕に目を見開きつつも恐る恐る手を差し伸べれば、小さなロボット鳥はそこがまるで自分の定位置であるようにキラの細い腕に止まる。
『トリイ?』
愛らしく首を傾げる様は、何一つ変わっていなかった。
「トリイ?」
『トリイ!』
アスランが驚いたようにその名を呼べば、トリイがアスランの元へ飛び立つ。
軽やかに上空を舞っていたトリィが、その小さな姿が創造主の肩へちょこんと止まっている姿を見て、キラの瞳が嬉しそうに眇められた。
二度とこの手に戻ることはないと思っていた緑色の小さな友人。
会えない3年もの期間、これだけがアスランと自分を繋ぐ絆だった。
この艦を裏切ることになった自分の所有物などとうに壊されてしまったものと思っていたから、それをトールが大事に保管していてくれたことがひどく嬉しかった。
おそらくクルーの誰からも隠していてくれたのだろう。
何も告げず姿を消した自分を恨まずに、こうしてトリィを預かってくれていた。
そんな友人の優しさに感謝の意を込めて振り返れば、うっすらと目に涙を浮かべている友人達の姿。
目が合えば嬉しそうに笑う大切な友人達の姿に、キラの目も再び潤んでしまう。
そんな彼らの元へ近づこうとして――。
彼らの後ろにいる男の存在に気付いた。
地球軍の作業服に身を包んだ男は、コーディネイターという理由でキラに暴力を振るっていた連中の1人だ。
恐怖か屈辱か、それとも怒りにか全身を小刻みに震わせている姿に、キラの中の警鐘が鳴り響く。
吊り上った眦、きつくかみ締められた唇。
そんな姿をキラは知っていた。
『化け物のくせに!』
そう言いながら殴りかかってきた彼らの誰もが、キラに――いやコーディネイターに同じような眼差しを向けていた。
男の腕がゆっくりと、だがその場にいる誰にも気付かれないように動いていく。
隣にいるクルーすら気付かないほど、さりげなく懐に伸ばされた彼の手に鈍く光るものが握られているのに気付いたのは、彼の動向から目が離せなかったキラだけだろう。
誰もが穏やかな空気の中、ほんの少しだけ警戒心を緩めてしまっていた。
ただ1人――キラを除いて。
男の視線の先には、赤いパイロットスーツの少年。
肩に止まったロボット鳥を嬉しそうに眺めている。
考えるよりも先に身体が動いていた。
「死ね! コーディネイター! 空の化け物め!!」
異変に気付いたザフト兵が対応するよりも早く。
細い身体が銃身の前に身を躍らせていた。
- 05.09.13