緊張に満ちた空間に響いた声は、ひどく懐かしいものだった。
聞きなれていたものよりも幾分高いように感じたが、だがそれは間違いなくかつて行動を共にしていた人物の声。
本人の資質そのままに優しく、それでいてどこか凛とした響きを持つその声をもう一度聞けるとは、正直思っていなかった。
何も告げず姿を消してしまった友人。
幼馴染と戦わざるをえなかった『彼』。
誰よりも優しかった友人は、誰にも言えることのない悩みを1人抱え、そして謂れのない虐待をその小柄な身体に受けていた。
会いたいと願い、だがおそらくはもう二度と会うことはないのだろうと半ば諦めていた。
『彼』が自分達に黙っていなくなってしまったのは、無理もないことなのだから。
だからきっと幻聴かもしれないと、わずかに上げた視線を再び足元へ落とそうとしたその時――。
「キラ!?」
アスランと名乗った少年の言葉に、今度こそトールの身体が大きく揺れた。
弾かれるように上げられた視界の先。
緑色の軍服に身を包んだ兵士達の間から、見知った――だが今までとは明らかに違う姿の友人が姿を現した。
ただでさえ標準よりも細身だった身体はこの数ヶ月で更に痩せてしまったらしく、以前よりも少しだけ小柄になってしまったように見える。
それでも身に纏う空気は相変わらず透き通るほどに綺麗で、その性別不能な美貌のせいもあって思わず目を奪われてしまうほどの吸引力があった。
見慣れていたはずの面差しだが、ほんのわずかな間にまるで別人のように変化した友人の姿。
だがそれよりも何よりもトールを混乱に落としたのは、ほっそりした身体のシルエットだった。
友人が着ているのは、濃紺のワンピース。
膝丈までのそれは、銀糸の刺繍が入っている以外は至ってシンプルなデザインで、繊細な顔立ちと宝石のような瞳にはとても似合っていたが、問題はそれではない。
「キ、ラ……?」
目の前にいる友人そっくりの美少女を前に、トールは喘ぐように言葉を紡ぐ。
薄い肩、細い腰、すらりと伸びた長い脚。
そして、何よりも誤魔化しようのない――柔らかな曲線を描く身体のライン。
トールが知る『キラ・ヤマト』は男だったはずだ。
少なくともIDは男になっていたし、行動も多少大人しいとは思っていたものの普通の少年と大差なかった。
尤も男同士の裸の付き合いというものはしたことがなかったから、実際に確認したことはなかったが。
では、このキラ・ヤマトは一体誰だろう?
見知らぬ人を見るような視線を向けるトールに、亜麻色の髪の少女はわずかに振り返り、そして苦笑してみせた。
「や、あ…トール。久しぶり…っていうのも変…だよね…」
困惑したような、申し訳なさそうな表情。
それは知り合ってから今までに幾度となく見せた表情で。
目の前の『美少女』と、自分の知る『友人』が間違いなく同一人物であると納得できた。
たとえ面差しがどう変わろうと、男だと思っていた友人が実は女であろうと、キラは自分達の知る『キラ・ヤマト』のままなのだと、何故かすんなりと理解できてしまったのだ。
(あぁ…キラだ…)
現状も忘れて涙が出そうになった。
ザフト兵に拘束されている自分達と、そのザフト兵に守られているキラ。
それが何を意味するか漠然とはわかるが、だがそれでもキラが生きていてくれたことが、そしてまた再び会えたことが嬉しかった。
キラは二言三言紺色の髪の少年と話し、そして未だに事態を飲み込めていないのだろう――呆然としたアークエンジェルのクルーへと向き直った。
真摯な瞳が艦長であるマリューへと向けられる。
「すみません、ラミアス艦長。僕がアークエンジェルの拘束をクルーゼ隊の方々に頼みました」
「キラ…君…?」
わずかに震える指先が、キラの緊張を如実にあらわしている。
この状況でキラが姿を見せるということは、キラがザフトのスパイであったと思われても無理のないことだ。
だが、それでもキラが彼らの元へやってきたのは、どうしても伝えたい言葉があったから。
このまま隠れて様子を見ているなんてできなかったからなのだ。
震える指先を握り締めて、キラは言葉を続ける。
「ヘリオポリスの民間人を乗せたまま、アークエンジェルをあのまま月へ行かせるわけにはいかなかったんです。同じオーブ国民として。そしてオーブ首長国連邦の人間として」
たとえどんな手段を取ろうとも、それだけは譲れなかったのだと瞳が告げていた。
向けられるいくつかの鋭い視線に怖くないわけがないだろうに、それでもキラは視線を逸らさない。
揺らがない強い眼差しを受けて、マリューは混乱する。
目の前にいる少年――いや少女は、確かにキラ・ヤマトだ。
だが、この威厳に溢れる姿は、本当に自分の知る人物と同じなのだろうか。
ヘリオポリスの学生で、偶然機密を知ってしまったが為に拘束を余技なくされ、その卓越した能力でMSのパイロットとして戦いに駆り出されていた、あの優しい少年からは想像もできない。
威圧感があるというのではない。
むしろ水を湛えた湖面のように静かな瞳は、以前よりもずっと穏やかだ。
だが、何故だろう。
反論も拒絶もできない、迫力があった。
歴戦の将の持つそれとも違う、更にもっと強い――何か。
「キラ君、あなた…一体…」
マリューの戸惑いを察したのだろう。
キラは長い睫を伏せ少し逡巡してから、やがて意を決したようにマリューに向けられたのは、はっとするほど美しい菫色の瞳。
深い慈愛に満ちた眼差し。
相対する者の心を見透かすように、強く抗うことのできない吸引力を秘めた眼差しをマリューに向け、キラは口を開く。
「僕の本当の名前はキラ・ヒビキ・アスハ。オーブ首長国連邦代表ウズミ・ナラ・アスハの第二子です」
◇◆◇ ◇◆◇
告げられた言葉の重みに気付かないマリューではない。
オーブの有力者から民間人の救助を要請されたと告げたクルーゼ。
おそらくあの時話した『彼女』というのが、目の前のキラなのだろう。
ラクス・クラインを伴って姿を消したキラが向かったのは、近くで逗留していただろうこのクルーゼ隊。
それはラクスを返還するためだけだったのかもしれないし、自身の救助も兼ねていたのかもしれない。
何よりもクルーゼ隊にはキラの幼馴染がいるとトールから聞いていた。
地球軍に属していない彼女が大切な幼馴染に助けを求めることは無理のないことだ。
申し訳ないと、それ以外に方法がなかったのだと、真摯に謝られたせいではなく、マリューには彼女を恨む気持ちはなかった。
この艦には誰一人彼女の心情を慮る者などいなかったのだから。
見捨ててしまうことだってできたはずだ。
それをしなかったのは、どこまでも優しいキラだからこそなのだろう。
そんな彼女を傷つけることしかできなかった自分が、どうして今彼女を責めることができるだろう。
断罪を待つ咎人のようにマリューの言葉を待つキラからは、自身を擁護する言葉は一つもでてこない。
申し訳ないと、皆を危険な目に会わせることになっても、それでもこの艦を月基地へ行かせるわけにはいかなかったのだと、ただそれだけを繰り返すキラ。
それがザフトのためでも――ましてや自分のためでもないことは、この真摯な態度からも推察できる。
大西洋連邦本部から月基地への召集がかかったのは事実だ。
だがその召集に少なからず疑問を抱いていたのも、また事実。
何の援助も協力もなく――補給のために立ち寄ったアルテミスでは彼らの利己的な要求を突きつけられ不当に身柄を拘束されもした。
それを不問にされた挙句、突然地球軍の切り札として召集されたことには、あまりの手のひらの返しように怒りすらわいたほどだ。
だが結局月基地へ向かったのは、自分達が軍人で上層部からの命令は絶対だったからに他ならない。
尤も、いつまでも航行しているわけにいかないというのも理由のひとつではあったが。
クルーの中には罠ではないかと意見もあった。
マリューもナタルも、それを否定できなかった。
そして目の前のキラの真剣な眼差しが、その疑惑を更に深めていき、今では確信に近いものがあった。
「…私達は、囮にされたのかしら?」
「………」
哀しそうに逸らされた視線が、事実を語っていた。
この艦が囮にされれば、犠牲になるのは自分達軍人だけではない。
居住区に残されているヘリオポリスの民間人や善意で協力してくれている友人達までも、その生命を散らせることになるだろう。
だからなのだろう。
キラはどうしても見捨てることができなかったのだ。
「ごめんなさいね」
「ラミアス艦長?」
「貴女にばかり、辛い役目を押し付けてしまって」
逃げるように去っていったこの艦に再び戻ってくれば、その事実を責める者だっているだろう。
背後に並ぶ整備班の中にはあからさまにキラに敵意を向ける者もいないわけではない。
居心地がいいはずないだろうに、それでもこうやって自分達の前に姿を見せるその実直さが好ましかった。
「こんな私達のことまで考えてくれて、本当にありがとう」
深々と頭を下げると、周囲からどよめきが生じた。
仮にも艦を預かる者がそんな風に思ってしまうことは、やはり艦長としても軍人としても失格なのだろう。
だが、一片の人間らしさを捨ててまで軍人であることは、マリューにはできそうになかった。
この小さな少女が必死で約束させたのだろう、クルー全員の身柄の保障。
それだけでも、彼女が自分達を裏切ったわけではないことが窺える。
この艦のクルーがキラにどれだけひどい行いをしてきたかわかっているだけに、そんなキラの優しさが嬉しくもあるし申し訳なくもあった。
「身柄は拘束されてしまいますが、でも必ず釈放してもらいますから…」
「十分よ。ありがとう」
本来なら撃墜されていてもおかしくはないのだ。
投降を呼びかけたことさえ通常ならばありえないことで、軍籍にある自分達はさすがに無罪放免ということにはならないだろうが、それでも生命の保障がされているだけでも破格の待遇だ。
それがすべてキラの尽力の賜物なのだから、文句など言えるはずもない。
「あなたが元気そうで安心したわ」
「ラミアス艦長…」
「こんなこと言っても今更だけど……、不甲斐ない艦長で本当にごめんなさい」
キラがザフトへ行ったことは、結果としてよかったのかもしれない。
アークエンジェルにいた時、マリューはキラの笑顔を見たことがなかった。
いつも哀しそうな苦しそうな表情で、マリューやナタルの理不尽な命令に傷ついていた。
今は緊張してはいるものの、その表情は明るい。
ザフトの兵士もキラに対して好意的であることは一目でわかる。
何よりも幼馴染の存在が、キラの心を穏やかなものにしているのだろう。
少し離れた場所にいるが、それでもキラから視線を外すことのない彼が、キラを幼馴染としてだけではなく大事に思っているのは明白で、そんな2人を戦わせていたのは紛れもなく自分なのだと思うとひどくやるせなかった。
- 05.09.09