「え…………?」
胸元でかすかな違和感を感じて、カガリは小さく声をあげた。
「カガリ?」
何が、とは説明できない。
だが先ほどは感じていなかったそれに首を傾げつつ、カガリは怪訝そうに自分に向けられたキサカに何でもないと首をふった。
気のせいだと、そう答えようとしたその時、軍服の下からころりと転がった紅い石。
慌てて胸元を探ってみれば、今までどんな衝撃にも切れたことのなかった革紐が、まるで何かに裂かれたかのように切れていた。
2人の姉妹にと父が用意してくれたハウメアの護り石。
お互いの無事を祈りつつ交換したそれが、何故今になって……。
足元に転がった石を拾い上げてみれば、無残にも大きく入った亀裂に息を呑む。
(どうして……)
手のひらに乗せてみれば、そのほんのわずかな衝撃にすら耐えられなかったかのように、小さな音とともに砕けてしまう。
宝石ほどではないが、それでもかなりの強度を誇るそれ。
キラとカガリの為に数人の神官で祈りを捧げたそれは、紐以上に頑強であるはずだった。
カガリの胸元にあった、キラの護り石。
キラの安全を祈って作られた、世界に1つしかない石。
それが、今、手のひらで砕けた。
「あ……」
言い知れぬ不安に震えだした手のひらから、細かい破片が足元へと落ちていく。
それに気付いて慌てて握り締めるものの、砕けた石が元に戻るはずもなく、また身体の震えも止まりはしない。
『じゃあ、カガリ。またね』
そう言って微笑んでいたのは、ほんの数日前。
キラは約束を破るような人間ではない。
だからきっとこれは気のせいなのだ。
だが……。
「目的のポイントまであとどのくらいだ!?」
「あと、20分ほどです」
「急げ! 一刻も早く到着するんだ!!」
(キラ…………)
胸の内から湧き上がってくる不安を消すことは、どうしてもできなかった。
◇◆◇ ◇◆◇
聞こえてきた一発の銃声はそれまでの音を消し去り、ほんのわずか緩くなっていた艦内の空気を一瞬にして凍りつかせた。
軽重力の中、ゆらりと浮かんだ細い身体。
衝撃のまま自分のほうへと流されてくる身体を受け止めて、アスランは呆然とその身体を見遣る。
2人の周囲に浮遊する、赤い粒。
「キ……ラ……?」
抱きとめた身体は相変わらず軽く、アスランの腕に苦もなく収まってしまう。
腕の中の少女は背後に感じたぬくもりに長い睫を開け、驚くほど澄んだ瞳で恋人の姿を見やる。
「アスラン、無事…?」
「あ、あぁ…」
問いかけに呆然と答えれば、菫色の瞳がふわりと笑む。
「よか……」
紡がれた声は言葉にならず、キラの身体から力が抜けてアスランの腕に倒れこんだ。
何だ?
何が起きている?
何故キラが俺の前にいるんだ…?
抱きしめた腕が何かに濡れているのに気付いた。
ふわふわと浮かぶ赤い粒が目に留まる。
「血…?」
何故…。
「キラっ!!」
悲鳴はアークエンジェルのクルーの中から聞こえた。
慌てて駆け寄ろうとしたピンク色の軍服に身を包んだ少女が、正気に返ったザフトの兵士によって遮られている。
「離してくださいっ! キラがっ!! キラあぁぁ!!」
茶色の髪の少女が必死でキラの名を呼ぶ。
「キラ…?」
ぐったりと自分によりかかったまま動かないキラに、ゆるゆると感情が戻ってくる。
「…っ、キラっ!」
慌てて身体から引き離すと、その顔色は蒼白で、意識もはっきりしているのかわからない。
虚ろな表情、だが不思議とその顔に苦痛の色はなくて。
「キラっ! しっかりしてくれ!!」
「ア、スラン…」
「キラっ!!」
かすかに聞こえた声に安堵の息を漏らしながらも、だがその容態が決して楽観できるものではないことは明白だった。
「軍医を…セリカを呼べ!! 大至急だ!!」
普段は決して声を荒げないクルーゼの緊迫した声が、事態の深刻さを窺わせた。
その声で正気に返ったのは、やはり赤服を身に纏った少年達で。
ニコルがヴェサリウスに通信を入れ、ディアッカとイザークが犯人に飛びかかった。
「貴っ様!!」
ディアッカが手刀で銃を叩き落すとイザークが怒りのまま男を蹴り倒す。
素早い動作でホルスターから銃を引き抜き照準を男へと定めた時――。
「駄目…」
振り絞るような声がアスランの腕の中から漏れた。
振り返った視界の先、動かない身体をそれでも必死に動かして起き上がろうとする少女の姿に、イザークが動きを止める。
「イザ…ク…、殺さないで…」
「キラ…っ!?」
「だが、こいつはお前を…!!」
「お願い…駄目……」
ふるふると首を振るキラに、イザーク達が勝てるはずなかった。
足元に転がる男の襟首を掴むと、そのまま近くの兵士へと放り投げる。
本当なら今すぐ射殺してやりたい。
投降しておきながら武器を隠し持っていて、しかも彼らの救命をしたキラを撃つなど、到底許せることではなかった。
だがキラがそう願うのならば叶えないわけにはいかなくて…。
「………くそっ!!」
誰であれ、アークエンジェルに乗っているすべての救命というキラの提示した条件を違えるわけにはいかないのだ。
たとえ誰を害したとしても。
「こいつを牢にぶちこんでおけ! この罪はしっかりと贖わせてやる!!」
消えない激情のまま、イザークはそう叫んだ。
そんな彼に感謝を込めた眼差しを向ければ、それに気付いたイザークがふいと目をそらした。
今にも泣き出してしまいそうな蒼い瞳。
プライドの高い彼はきっと涙を見せようとはしないだろうけど、それでもきっと今の状況に心を痛めているのだろう。
不器用だけど優しい人だとキラは思う。
(ありがとう…)
声に出すことなく、銀色の髪の友人にそう告げる。
イザークもディアッカも、そしてニコルもとても優しい人だ。
出会えたことが嬉しく、そしてわずかだが一緒にいられた時間はとても貴重なものだった。
そして、同じく優しい友人達。
涙でくしゃくしゃになった少女。
年齢よりもしっかりしていて、その面倒見のよさに何度助けられたかしれない。
傍らに立つ友人達も、色々あったけど結局キラには誰も恨んだりなんてできなくて。
思い出すのは、ただただ楽しかったヘリオポリスでの平和な日常。
「トー、ル……、サイ…、カ…ズイ…、ミリ…ア…」
菫色の瞳が自分達に向けられたのに気付いた友人達が、慌ててキラの元へ駆け寄る。
止める兵士はいなかった。
彼らに抵抗の意思がないことも原因だが、何よりもキラが彼らを呼んだから。
「キラ!? キラ!!」
「みんな…ご…めん、ね……」
申し訳なさそうに、辛そうに、そう告げるキラ。
この状況でも自分のことよりも他人のことを気遣うキラに、ミリアリアが大きく頭を振った。
「謝らないで……っ! 謝らなきゃいけないのはあたしたちの方なんだから!!」
「みんな…守るって、やくそく…」
「キラはもう十分やってくれたよ! もう十分だ!」
「ごめんな、お前ばっかりに辛い役目負わせて…」
「こんな情けない友達で、ごめんな…」
「情けなく、ないよ…」
泣きじゃくる友人を宥めるように、キラはいつものようにふんわりと微笑む。
彼らが変わらず友人と言ってくれたことが、嬉しかった。
そして、幼い頃からずっと一緒にいた、大切な人。
優しい腕のぬくもりは、誰よりも安心できて。
一時は敵対していたけど、それでもどうしても離れることはできなかった最愛の人。
彼を守れたことが、こんなにも嬉しい
「ア、スラン…」
「キラ…」
穏やかに微笑むキラ。
だがその体温は刻一刻と低くなってきていて。
ひんやりとした指先の冷たさは、すでに身体全体が同じ体温になりつつあった。
否定しようとしてもしきれない喪失の恐怖。
冷え切った手を温めるようにきつく握り締めても、気休めにもならなくて。
抱きしめた身体から流れていく血液が、キラの体温を奪っているのだとわかっていても、それでも巻いた布はあっという間に真紅に染まっていく。
一度はキラを健康に戻した軍医ではあったが、すでに彼女でも手の施しようがないようで、到着したセリカは彼女を一目見るなり沈痛な表情で首を振った。
それが何を意味するか、わからない彼らではない。
「キラ………キラ………。嫌だ…俺を置いていかないでくれ……っ…」
「馬鹿…だなぁ…ア、スラン…」
ふふ、と小さく笑うキラは本当に綺麗で。
愛しい人を救うことができたことが何よりも嬉しいのだと、その笑顔が語っていた。
震える指がアスランの涙をそっと拭う。
二度と離れないと誓ったのはほんの数日前。
あの言葉に嘘はなかったのに。
それでも今腕の中から失われようとしているぬくもりに、アスランの目からはとめどなく涙が溢れてくる。
母が亡くなった時でもここまで嘆かなかった。
突然すぎて理解できなかったというのもあるし、また、彼女の死に顔を見ていないからかもしれなかった。
だが、今……。
キラの生命を奪うように流れていく紅い液体がアスランの腕を濡らすたびに、目の前にある何よりも尊いと思っている存在の喪失を予感させるようで、アスランは子供のように何度も頭を振る。
頬を流れる雫がキラの頬へと伝って落ちていくことすら、今のアスランには気付かない。
「泣かないで…?」
そんな哀しそうな顔をしないで。
大切だから。
誰よりも大切だから、笑っていて。
そう言われても、アスランはただ首を振るばかりで、キラは苦笑する。
「ずっと…一緒だよ…?」
「キラ…」
「僕達は、ずっと……」
濡れた碧の瞳に微笑みながら、キラは囁く。
ふと、霞む視界に、何かが横切った。
緑色の小さな物体。
その光に、キラがわずかな反応を見せた。
大好きな人から貰った、キラの大切な宝物。
「トリィ…僕の…」
伸ばされた手は、だがトリィに触れることなく床に落ちる。
「キラ………?」
アスランが信じられないというように腕の中の少女へ呼びかける。
微笑を浮かべた顔は、信じられないくら穏やかで。
まるで眠りについたかのように無垢な表情だった。
「キ、ラ……?」
緑色の鳥がアスランの肩に止まる。
不思議そうに小首を傾げる姿は、相変わらず無邪気で。
目の前に眠る少女へと、それは向けられていた。
『トリィ?』
答える声は、ない。
- 05.09.18