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藍よりも深く 33


「…ラ…、キラ?」
「…えっ? あ…何?」

ついうっかり自分の世界に旅立ってしまっていたキラは、先程から呼んでいたであろうラクスの声に反応するのが遅れた。
慌てて返事をすれば、目の前の麗しい少女は特に気にした様子もなく言葉を続けた。

「キラには婚約者がいますかと訊いていたのですよ」
「は…?」

キラの記憶が確かなら、つい先程まで明日の作戦について話していたはずだった。
キラからしてみれば十分すぎるほど緻密な作戦に、それでもいくつかの欠点を指摘したラクス。
それこそ民間人であるラクスがよくここまでと思えるほど今回の戦争についての広い視野と洞察力を披露しており、キラが自分の世界に旅立ってしまった原因の1つは、目の前で繰り広げられるその高尚な会話についていけなくなったことにもあった。
それほど長い時間考え込んでいたつもりはないが、キラが意識を飛ばしていた僅かな間に一体どこでどうやってそういう話題に転がっていったのか、キラには見当もつかない。
単なる好奇心なのか、それとも何か他の意図があるのか。
キラはわずかに首をかしげるが、目の前の妖精の如き少女の真意がわかるはずもなく、周囲の視線に居心地の悪さを感じながらも、それでも正直に答えた。

「…いないよ、別に」
「でも、姫さんオーブの第二王女だろ。婚約者とかいるんじゃないのか普通」

聞きにくいことをずけずけと質問するディアッカにわずかに恨みがましい視線を向けつつ、しかし今更答えないわけにもいかなくなってキラは目の前のカップを口に運んだ。

「…カガリにはいるけどね。僕はほら…コーディネイターだし、それにずっと男として育ってきたから…」

首長の座を継ぐカガリには、生まれた時から婚約者が定められていた。
活発なカガリとは正反対に穏やかで温厚な人物だが、実直で飾らない人柄はカガリも気に入っているらしく、2人は周囲の思惑に反して仲睦まじかった。
だが、キラには特定の相手はまだいない。
少なくとも、キラ自身は聞いたことがない。
そう告げると、ディアッカがにやりと笑った。

「へえ…愛されてんじゃん」

国土こそ大きくないが、それでも現在の地球での影響力は半端ではなく大きいオーブの第二王女ともなれば、それこそ求婚の数は星のように多いはずだ。
ましてやこれだけの容姿の持ち主だ。
遠く離れたプラントにおいても、それこそ映像すら手に入らない状態にありながら、歌姫ラクス・クラインと並ぶほどの人気を誇った『オーブの綺羅星』。
たとえ財や権力などなくても、それでも手に入れたいと思う者はプラントでも少なくない。
ディアッカでさえ、少なからず興味を抱いた少女。
そんな彼女が未だに婚約者すらいないことは、通常ならばありえない。
なのにキラは自分に婚約者はいないと言う。
その言葉に嘘はないはずだろうし、また先日のあの姉の様子を見てもそれはありえないと断言できる。
キラの隣に立つアスランに、スクリーン越しでさえあれほどの敵意を向けるほどの溺愛ぶりを考えると、彼女がキラにとって不利益になるようなことをするはずがないだろう。
ということはどういうことか。
これはディアッカの推測でしかないが、おそらくは彼女の家族がすべての縁談を蹴っているのだろう。
キラを保護したと連絡を受けたあとのオーブの対応の迅速さや、あの姉の態度を見れば想像に難くない。
揶揄をこめてディアッカが笑うと、キラの頬がわずかに赤くなった。
そんな様子は噂に違わぬ可憐な天使のようで、この少女を手に入れる人物はきっと多くの男から恨まれるだろう、と隣にいるアスランへ視線を投げる。
ディアッカの視線の意味に気付かないアスランは、先程から不機嫌な態度を隠さない。
案外と心の狭いヤツだ、とディアッカは藍色の髪の同僚に対する認識を新たにする。
アカデミーにいた頃は始終無表情で、四角四面のまるで面白みのないヤツだと思っていたが、実はこの中の誰よりも激情家なのだと知った。
呆れるほどキラのことしか頭になくて、彼女を守るためなら世界すら敵に回すだろう。
そういう馬鹿は、嫌いじゃないが。
ディアッカの中に、軽い悪戯心が芽生えたのは、ちょっとした好奇心から。
誰よりもキラを好きだと全身で訴えていながら、それでも依然として幼馴染という位置から動こうとしないこの年下の同僚が、一体どんな顔をするのか興味があった。
利用することになってしまう目の前の少女に心の中で謝りつつ、ディアッカは目の前にある少女の手に自分の手を重ねた。

「ディアッカ?」

何をされるかわからないのだろう、きょとんとした表情のキラにディアッカは意味深に微笑む。
多くの女性を落としてきたその微笑は、だがやはりキラにとっては意味をなさないもので、不思議そうに自分を見上げる菫色の瞳はあくまでも友人に向けられるものだ。
そんなキラとは正反対に、予想通り一瞬にして敵意を瞳に宿したアスランの様子に、ディアッカは尚も行動を続ける。
細い指に自分の指をからめるように手を握り、その手に優しく口付ける。

「俺じゃダメ?」
「………え?」

告げられた言葉に、キラの目が丸くなる。

「ディアッカ!!」
「だって、問題ないだろ。どうやらキラの相手はまだ決まってないようだし、なら俺が立候補したっていいじゃん」
「えっと…」

おそらくは冗談なのだろうが、それでも面と向かってプロポーズされたことのないキラは、どうやって返事をしたらよいものかわからず、亜麻色の髪をさらりと揺らして困惑した表情を浮かべる。
いずれは誰かと結婚をするだろうとは思っていたが、その相手まではさすがに考えが及んでいなかった。
オーブの王女として生まれた以上、政略結婚は確実だろう。
いくら父や姉がキラのことを考えてくれても、そんな個人的感情だけですむ問題ではないはずだ。
カガリは父ウズミの腹心の部下と婚約した。
父が認め自らの後継者として定めた、政界に入るにはまだ若年の好青年と。
おそらくキラもそうやって誰かと結婚をするのだろうと、誰に聞かないでもそう思っていた。
確かにディアッカの言う通り、彼ならばキラの結婚相手としては申し分ないだろう。
オーブとプラントとの友好的な関係を結ぶという意味では、最高評議会議員を父に持ち彼自身優れた人物なのだから。
戦争中という状況でなければ、正式に婚約が受理されても何らおかしくない相手だ。

だが…。

キラはちらりと横目でアスランを覗き見る。
ようやく以前のように戻れたアスランとの関係。
他の男性と婚約をしてしまえば、今までのように接することはできないのだろうと思うと、何だかひどく哀しかった。

「それに、俺の親は最高評議会議員だし、キラの身分とも釣り合い取れてると思うぜ。勿論大切にするし」
「えと…えっと…」

にやにやと笑うディアッカの瞳にはどこかからかいを含んだ光が浮かんでおり、彼がこの話に対して本気でないのは明白だ。
だからこそキラは返答に困ってしまう。
笑って済ませていいものかどうか。

「あら、でしたら相手はアスランでもよろしいのではありませんか?」
「!?」

当然のようにラクスが発した言葉に、ただでさえ混乱していた頭がさらに混乱する。
これ以上ないというほど見開かれた菫色の瞳がラクスへと向けられる。

「な…っ、何言ってるんだよ、ラクス。アスランは君の婚約者じゃないか!」

とんでもないというように声を荒げるキラに、ラクスはまるでその事実を忘れていたとでもいうように首をかしげた。

「まあ、そういえばそうでしたわね。でしたら、アスラン」

にっこりと、花弁にも似た可憐な唇が婚約者にふわりと微笑みかける。

「婚約、解消いたしましょう」
「え…?」
「はあ?」

突然の台詞に傍観者を決め込んでいたアスランの眉が怪訝そうに顰められる。
だが、ラクスはそんなアスランの様子など気にも解さないようで、名案だというように両手を合わせたまま言葉を続ける。

「だって、私キラの相手はアスランがお似合いだと思うんですもの」
「やややややだな、ラクス。なな何冗談言ってるのさ」

突然の発言に驚いたキラに、ラクスは笑顔のまま言葉を続ける。

「でも、キラだってアスランがよろしいのではありませんか?」
「確かに、お似合いですよね」
「ふん、こんな腰抜けにキラは勿体ないだろう」
「まあ、アスランなら…な」

ぐるりと囲まれて、キラは困ったようにアスランを見る。
だが、翡翠色の瞳と目が合うよりも早く、真っ赤になったキラは慌てて椅子から立ち上がった。
そんな様子は、まるでアスランの瞳に自分が映ることを恐れているようで、反動で椅子が倒れたのにも気付かず、キラはじりじりとテーブルから後ずさりする。
振り返った翡翠色の瞳がキラの姿を捉えると、キラの顔が目に見えて赤くなった。

「えと……えっと僕…もう寝るね。お休み!!」

そう叫ぶなり珍しい素早さで、キラは食堂から出ていってしまった。

「からかいすぎですよ、ラクス嬢」
「あら、だってこうでもしないとキラってば自分の気持ちを自覚しないようだったんですもの。荒療治ですわ」

さすがに不憫に思ったのかイザークがたしなめるが、当の本人はまったく悪びれた様子がない。
アスランと目が合うなり真っ赤になって逃げていってしまったキラ。
それはおそらくラクスの想像通りの結果で、ラクスは自らの推測が間違っていないことを知った。
様々な理由からかそれを自覚するつもりはないようだが、それではあまりにキラが不憫すぎる。
誰が見ても特別な感情を抱いているとわかるほどに雄弁な2人の瞳。
それを引き裂くのは酷というものだ。
ましてやアスランの婚約者である自分は、彼に対して異性の愛情を抱いていないのだから。
キラが喜ぶのなら、最高評議会の決定など覆すことなど容易いことだ。
後はアスランが行動を起こせばいいだけだ。
アスランは何か考えこんでいるようだったが、やがてラクスへと視線を向けた。
翡翠の瞳に強い決意を浮かべて。

「ラクス…」
「はい」
「先程の話は本当ですか。その…婚約解消のことですが…」
「私、嘘は言いませんわ」
「…いいのですか?」
「いいも何も。結婚とはお互い愛し合った者同士がするものだと思いますもの。アスランが愛してるのは私ではありませんし、キラが愛すのもまだ見ぬ婚約者ではないはずですわ」
「ありがとうございます」
「キラを泣かせたら承知しませんよ」

ラクスの言葉に、アスランは笑みを浮かべて肯定すると、キラの後を追った。



「いいのですか?」
「何がです?」
「アスランとの婚約解消のことです。評議会の決定なのに」
「先程も申したとおり、私は愛のない結婚をするつもりはありませんわ。――誤解しないでくださいね、婚姻統制に意義を唱えているわけではないのですよ。ただ――あの2人は本当にお互い想い合っていますもの。それを引き裂くことはしたくないのです」

戦場で知り合った心優しい友人。
どこまでも純粋で綺麗なキラが、ラクスは大好きなのだ。
誰よりも幸せになってもらいたいと思う。
いつでも笑っていてほしい。
だから。

「それに、キラがアスランと結婚しましたら、キラはプラントに来るでしょう。そうすればいつでもキラに会えますもの」

そう言って、ラクスは楽しそうに微笑んだ。
ラクスの真意を知って、残された3人のパイロットは唖然とし、そして誰ともなく笑いが零れた。
戦争が終わればキラはオーブへ戻る。
そうなれば彼女の身分から考えても二度と国を出ることはできないだろう。
このままでは彼女とは今生の別れになる。
だが、キラがプラントへ嫁いでくれば、これからもまた会えるのだ。
あの清らかで純粋で、そして意地っ張りな彼女と離れたくないと思うのは、ラクスだけではなかった。

「後はアスランの努力次第ってとこか」
「そういうことですわね」

だが、それは問題ないだろうと彼らは思う。
先程焚き付けた炎は、今アスランの胸中をこれ以上なく燃やしているだろう。
キラの態度を見ても、失敗するとは思えなかった。
戦闘を前日に控えているとは到底思えない穏やかな雰囲気の中で、若きパイロット達は楽しそうに笑っていた。
おそらくはお互い初恋同士であろう、初々しいカップルの誕生を願いながら。


  • 05.07.22