ブリッジの入口に手をかけているその細い指先が、目に見えて震えている。
きゅっと捕まれたその手が、力の入らない身体を何とか支えているようで、そのいたいけな姿に誰もがかける言葉をなくした。
蒼白の顔色。不安げに瞬く菫色の瞳。
そんな様子は見ているだけでも胸が痛くなるほど切ない。
彼女が今までどれだけ傷ついてきたか、ヴェサリウスでもガモフでも、もはや誰一人知らないクルーはいない。
そして、彼女が清らな精神の持ち主であることも、また然り。
そんな彼女をこれ以上哀しませたくないというのは、ヴェサリウス・ガモフ両艦のクルー全員の一致した見解だった。
『キラ・ヤマト』という人間をほとんど知らない彼らですらそう思うのだから、彼女を幼い頃から知るアスランにとっては尚のことだろう。
今にも崩れ落ちそうなほど震えているキラは、だがそのまま勢いをつけて彼らの元へと移動する。
ブリッジを漂う身体はまっすぐアスランへと向かい、無重力の中不安定な身体を支えるように差し伸べられたアスランの手を取りふわりと着地した。
「キラ……」
目の前に立つ少女に、アスランは驚愕を隠せない。
てっきり眠っているものだと思っていた。
少なくとも、アスランが部屋を出るまでは、キラは確かに眠りの中にいたはずなのに。
至近距離から見据える瞳は不安げに瞬き、癒える気配の見せない深い傷痕を窺わせ、アスランは痛ましさに目を細めた。
「どうしてここに――?」
だがキラは答えることなく、むしろそれどころではないというように強く首を振った。
「僕のことよりも…さっきの言葉…。アークエンジェルが囮にされてるって……月基地諸共爆破されるって…本当なの…?」
「……」
真実を伝えないわけにはいかず、だがそれはキラの心をまた傷つけてしまうだろうとは容易に想像がついた。
だが、どう説明すればいいのだろう。
アスランとて今話を聞いたばかりで、知っている事情はキラが先程聞いたものと大差ない。
イザークやディアッカ、ニコルなどは自分よりも詳しい事情を知っているだろうと思うが、彼らは痛ましそうにキラを見るばかりで、説明をする気配はない。
触れたら壊れてしまいそうな今のキラの様子を見れば、迂闊なことは言えないといったところだろうか。
「いや…それは……」
なるべくキラがショックを受けないように説明しようと言葉を選んでみるものの、やはりそれはキラの望まない結果にしかならず、アスランは上手く言葉を紡ぐことはできない。
人よりも頭の回転は悪くないと思っていたが、こと相手がキラに関するとこんなにも思考が空転してしまうことにわずかな焦りと苛立ちを感じながら、それでも必死で明晰と言われる頭脳をフル回転させ言葉を探す。
だが他人の感情に敏感なキラがそんなアスランの行動に気付かないはずがなく、アスランの沈黙から事態を的確に把握したキラは、足元から力が抜けていくようで、思わずアスランの軍服に縋りついた。
「どうして……っ!!」
信じたくなくてキラは何度も首を振る。
否定してほしくて、キラは周囲に視線を彷徨わせる。
だが、その場にいる誰もがキラと視線を合わせようとせず、気まずそうに痛ましそうに視線を伏せる姿は、言葉よりも雄弁にキラに事実を教えていた。
菫色の瞳に涙が溢れ、キラが首を振るたびに透明な雫が周囲に散った。
きつく握り締められた手が細かく震えている。
アークエンジェルが現状のまま月基地へ向かうのなら、当然オーブの避難民も一緒のはず。
通常なら月基地からオーブへ連絡が入り、民間人である彼らはそのままオーブへ戻ることになる。
だが、アークエンジェルが今回召集されたのは作戦のため。
囮として利用される彼らに、地球軍はそこまでの便宜を図ってくれるだろうか。
答えは、否だ。
そして、それがわからないキラではない。
「あの艦にはオーブの民間人がいるのに……」
「キラ…キラ。落ち着いて」
宥めるように肩に手を置くものの、今のキラが自分の言葉を聞いているかどうかすら怪しい。
きつく見据える先には無限に広がる宇宙。
肉眼では捉えられないほど、遥か遠くその先にあるのは――白い大天使。
「どうして……」
守りたいと思った。
守らなければ、とも思っていた。
それなのに…。
菫色の瞳から涙が溢れ、キラが激しく首を振るたびに透明な雫が宙を舞う。
興奮すると傷に障るからとは、思っていても口に出せなかった。
「キラ…」
縋りついてくる身体を優しく包み込むことで、少しでも彼女の気持ちが安らぐようにと、アスランは震える身体を抱きしめる。
身長差こそそれほどないものの、やはり男女の差なのか体格差は歴然としていて。
細い、それこそ少し力を入れただけでも折れてしまうのではないかというほど華奢な身体を自らの腕の中に閉じ込めて、アスランはキラの名を呼ぶ。
アークエンジェルがどういう経緯でこういう状況に陥ったかは、アスランにはわからない。
だが…。
それが作戦なのだとしたら、アークエンジェルは月基地へ向かうのを止めないだろう。
彼らは本部の思惑を何も知らず、死地へ赴いているのだとも気付かないまま。
(あんな艦、別にどうなっても構わないけど…)
アスランは心中で呟く。
あの艦にいるのは、キラに暴力をふるっていた男達、友人の境地に何一つ気付かなかった『友人』と称する枷、さらには民間人のキラに戦闘を強要させた地球軍仕官。
そんな彼らがどのような目に合おうとも、アスランには痛くも痒くもなかったが、だがそれでも、キラは哀しむのだろうと思うとこのまま見過ごすこともできそうにない。
それは、甚だ不本意ではあったけど…。
「キラ、彼らは大丈夫だよ」
宥めるようにゆっくりと髪を梳き、安心させるように耳元に囁くと、弾かれたように涙に濡れた瞳が向けられた。
そのあまりに透明な輝きに一瞬見惚れながらも、アスランはそっと微笑みかける。
「彼らを助けると、約束しただろう。俺達は約束は必ず守るよ」
「アス、ラン…?」
アスランは妙に確信めいた表情で、背後にいる上司を振り返る。
「ですよね、クルーゼ隊長」
「うむ」
アスランの問いに、クルーゼは当然のように頷いた。
その言葉に、長い睫が大きく瞬きを繰り返す。
そんな様子をいじらしく思いながらも、クルーゼは言葉を続ける。
「ただ、こういう状況だ。君達をプラントへ送る時間はなくなってしまった。多少危険とは思うが、君達には作戦が終了するまで、このままヴェサリウスへ逗留してもらわねばならなくなるが、それでもよいかな?」
「クルーゼ、さん…?」
「…地球軍の今回の作戦は、さすがに我々としても見過ごせないものなのでね」
確かにアークエンジェルという艦は、ザフトをおびき寄せるためには格好の獲物だろう。
更には知将ハルバートン率いる第八艦隊は、地球連邦軍の中でも屈指の戦歴を誇る。
この2艦が囮になれば、地球軍本部の目論見通り、相当数のザフト艦を道連れにすることができるだろう。
その際の両軍のダメージは、ザフトの方が圧倒的に高い。
下手すれば一気に戦局を覆すほどの損害になりかねない。
それは避けなければならないことだ。
何よりも、そのような卑劣な手段で、大切な兵士の生命を――たとえほんの1つとして失いたくはない。
そう説明すれば、菫色の瞳に安堵の色が浮かんだ。
「そういうわけで、君やラクス嬢にはしばらく不便な暮らしを強いてしまうが、事態が事態なので理解していただきたい」
「僕は平気です」
「私も構いませんわ」
緊張した空気の中、キラのものとは違うおっとりと柔らかい少女の声が響いた。
顔を確認するまでもない。
キラ以外にこの艦に少女はただ1人しかおらず、ましてやその妙なる声はプラント中で知らない人はいないのだから。
ピンク色の球体を伴って姿を現した歌姫は、相変わらずの優雅な笑みを浮かべクルーゼへと向き合った。
戦争を憂慮しているのは、キラだけではない。
ラクス・クラインもまた、日々激しくなる戦況に胸を痛めていたのだから。
ただ、剣を取って戦うことのできない彼女は、その妙なる歌声と清らな心で平和を訴えていた。
すべての生き物を慈しむ彼女だから、クルーゼの言葉に否を唱えるはずなどなかった。
「これ以上、戦争で罪のない人たちの生命を失わせないでください」
普段は無邪気さを湛えている青い瞳には、ほんの少しだけ強い光が浮かんでおり、彼女の真剣さを物語っている。
プラントの妖精と呼ばれる彼女の、だが外見からは窺うことのできない芯の強さを感じ取ったクルーゼは、歌姫の真実を見据える眼差しを受けて小さく頷いた。
「了解しました」
縋るような菫色の眼差しと、深い泉のような眼差しを受けて、クルーゼはブリッジを一瞥した。
一気に変化した空気を感じていたクルーの視線を一身に受け、彼は告げる。
「ヴェサリウス、全速前進。目標、地球軍新造艦。アークエンジェル」
事態はゆっくりと、だが確実に動き始めていた――。
- 05.05.29