何故彼がここにいるかという疑問など、頭になかった。
ただ囁かれた声がひどく切なくて、告げられた言葉が哀しくて。
翻る気配を感じた瞬間、キラはその人物の名を呼んでいたのだ。
「アスラン」
黒衣の背中がびくりと震えた。
それがキラの目覚めを望んでいなかったことを如実に語っており、キラは哀しそうに眉をひそめた。
「何で黙っていなくなるの?」
「……」
「さようならって、どういう意味?」
「……すまない」
「謝らないでっ!」
知らず声を荒げてしまった自分を内心なじりながら、キラは紫水晶の瞳を目の前の男に向ける。
非難したいわけではない。謝罪が欲しいわけでもない。
ただ、知りたいだけだ。
彼がどうして自分に別れの言葉を告げたのか。
だがキラを拒んでいるように背中を向けたままのアスランからは望む答えが返らず、またどれだけ訊ねてもその理由を告げるつもりがないだろうということが分かってしまうせいか、どうしても語尾がきつくなってしまう。
アスランはただの客人だ。
いずれ去る時が来るだろうということは最初からわかっていた。
彼らには彼らの生き方があり、それはキラにはどうしようもないものなのかもしれない。
だが、それでも――。
「アスラン…」
不思議なほどに安らぎを感じた存在であるアスランと、こんなにも早く別れることになるなんて思っていなかった。
宝石のように輝く瞳が潤むのは哀しさからなのか、それとも憤りなのか。
「答えて、アスラン。どうして急に――」
「――来ないでくれ、キラ。 でないと俺は…」
寝台から抜け出す気配に気付いたのか、キラの声を制するように告げられた声は鋭く、彼の荒げた声を初めて聞いたキラは思わず足を止め――そして、かすかに振り返ったアスランの眼差しの変化に息を呑んだ。。
「――っ!」
それは恐怖ではなく、驚愕に近かった。
初めて見るその変貌。
稀有な翠玉のように輝いていた翡翠の瞳は血塗られたような真紅に染まっており、理知的な口元に見えるのは――吸血鬼の特徴でもある鋭い犬歯。
禍々しいほどの美貌に息を呑んだキラをどう思ったのか、アスランはつらそうに視線をそむけた。
「……ごめん…」
一言そう呟くと、次の瞬間黒衣に身を包んだ姿はバルコニーへと移動していた。
それが吸血鬼の異能であると察したキラは、慌ててその姿を追いかける。
そらされた表情でアスランが傷ついたのだとわかる。
キラの足が止まった原因がアスランの変貌に恐怖を抱いての行動だと思われてしまったのだろう。
(違う!)
恐怖ではない。だが、アスランはキラの言葉を聞く間もなく部屋を飛び出してしまった。
誤解をとかなくては。
そう思い、キラはまっすぐにアスランの消えたバルコニーへと走る。
だが、わずか数メートルの距離を移動する間にもアスランはバルコニーから身を躍らせており、キラがバルコニーに出ると黒衣姿のアスランはすでに庭へと降り立っていて、森の中に姿を隠そうとしているところだった。
「アスラン!」
消えていく背中に感じたのは、永遠の別離。
おそらくアスランはそのまま姿を消すつもりなのだろう。
そう察したキラは躊躇なくバルコニーに手をかけた。
闇の一族であるアスランにとってバルコニーからの距離はほんの段差に過ぎない。
けれど何の能力も持たないキラにとっては決して無傷ですむ高さではない。
だが、その時のキラは何も考えられなかった。
このまま別れることに比べたら、怪我の1つや2つ気にならない。
「アスラン! 待って!!」
決して運動神経が鈍いわけではないキラではあったが、そのときのキラは重要なことを失念していた。
今キラが身に纏っているのは常日頃動きやすさを重視して選んでいる短衣ではなく、裾の長い夜着。
ゆったりとドレープのきいた夜着は軽いけれど足元に纏わり着いてキラの動きを制限する。
飛び越えようと手すりに身を乗り出した途端、長い夜着の裾に足を取られてバランスを崩してしまった。
世界が反転したと思った瞬間、その身はすでにバルコニーの外にあった。
ふわりと身体が舞い上がるような錯覚。そして――一瞬にして重力に引っ張られる恐怖。
「――っ!!」
悲鳴は出なかった。
上げる間もなかった。
(落 ち る ――?)
初めての体験。
だが以前にも感じたことがあるような気がするのは気のせいだろうか。
眼前に迫る緑の木々。
頬に感じる鋭い空気。
縋るもののない恐怖――。
そして、上空で冴え冴えと輝く白い月。
封印されていた記憶が呼び起こされる。
燃える館。
抱きしめる強い腕。
炎に飲まれた優しい笑顔――。
(あ――)
『キラ!!』
深淵の闇に響くボーイソプラノ。
差し伸べた手の先にいるのは――。
(あすらん…?)
- 06.12.17