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Cry for the moon 22


キラには告げるつもりはない。
そう決意したもののどうしても最後に一目姿を見たくて、アスランは眠っているキラのもとを密かに訪れた。
愛しくて愛しくてだからこそ危険に晒したくないという気持ちに偽りはなく、だからこそ別離を決断したのだが、これから先いつ会えるとも知れないまま去ることはできなくて。
キラの就寝の時間はとうに過ぎているのだから姿を見咎められることはないだろうと訪れた室内では、大きな寝台の中で穏やかな寝息をたてているキラの姿があった。
純白のシルク素材のシーツの中亜麻色の髪を散らしてくうくうと眠る姿はあどけなく、姿は大人びたもののこの邪気のない寝顔は昔と何も変わらなかった。

1人で眠るのが嫌いだったキラは、幼い頃よくアスランやラクスの寝台にもぐりこんできてはイザークに怒られていた。

『お前は一応女なんだからな、アスランじゃなくてラクスのところへ行け!』
『だってラクスは昨日一緒にねたもん。だから今日はアスランなの』
『アスランは男だ。いくら10歳だからって一緒に寝るやつがあるかあっ!』
『アスランはキラの『だんなさま』だからいいの』
『それはまだ決まっとらん!!』
『イザークのけちー』

本気で怒るイザークと反抗するキラとのやりとりは恒例の行事になっていて、キラの養育係は仕事が減って助かると喜んでいたことを覚えている。

(今はもう1人で眠れるんだな)

それでも大きな枕を抱きしめるように眠っているのは、もしかしたら失われた記憶のどこかで傍らに眠る存在を求めているのかもしれなかった。
そんな様子を見てしまえば、折角固めた決意も崩れてしまいそうになる。
身体からこぼれてしまいそうなほどの恋情を押さえるには、アスランの理性はあまりにも頼りにならない。
ましてやヴァンパイアの本能である吸血の欲求さえキラにしか向かないアスランにとって、目の前で眠るキラの姿に本能が騒ぐのを止めることができない。

知らなければ我慢できただろうキラの、極上の血の香り。
だがアスランはその血がどれだけ甘美なものか知ってしまっていた。
芳醇で馥郁とした香り、濃厚で一度味わったら忘れることなどできない甘露な味。
闇の一族で最も尊いキラの身体に流れる血は、獲物として狩る人間のものとは比べるべくもない。
ほっそりとした白い喉はまるでアスランを誘うかのように晒され、無防備な寝姿もアスランの欲望を刺激する。
肌理の細かい白い肌、規則正しい寝息を立てる愛らしい唇。
奇蹟のように整ったその姿すべてがアスランを魅了する。

(キラ…)

子供のころ一度だけ吸血の欲求に負けそうになったアスランに、キラは自らを差し出してくれたことがある。
ヴァンパイアとしての本能に目覚めたアスランが最初に欲したのはやはりキラで、だが当時のキラは一族の能力を何一つ受け継いでいなかった。
ましてや無類の怖がりだったキラにそのような姿を見せるわけにもいかず、必然的にアスランがキラを避けるようになってしまった幼い頃。
事情を説明されてもなおアスランと離れていることが耐えられなかったキラは、夜中に1人アスランの部屋に忍び込んできたのだ。

『アスランになら、いいよ』

本能に抗えず異形に姿を変えたアスランに怯えながらも、だが決してその手を放すことなくキラは自分のすべてを与えてでもアスランと共にいることを選んでくれた。
そのときに知ってしまったキラのぬくもり、そして極上の血の味。
同族ならばこそ、その誘惑に抗えるはずもなく――。



「ん…」
「――!?」



近い距離で聞こえたキラの声で我に返れば、目の前にあるのはキラの白い喉元で――。

(俺は、今…何をしようと――)

驚愕に見開いた視線の先には、鏡に映った浅ましい自分の姿。
理知的と称された碧の瞳は獰猛な真紅に輝き、口元には闇に光る犬歯――そんな自分の姿に愕然とする。

(こんな…)

最後に一目だけでもと思ってのことだった。
言葉を交わせば離れ難くなってしまうことがわかっていたから、せめて姿だけでもと。
決してこのような醜い感情を晒すつもりなどなかった。

なのに――

押し殺して気付かない振りをしていたこの醜い恋情は、どんなに理性で押し込めようとしてもこんなにも脆く崩れ去ってしまうのか。
愛しくて大切にしたいと誓った少女の寝込みを襲うような愚かな真似をするなど、決して許されることではない。
そこまでキラに餓えていたと言ってしまえばそれまでだが、そんな自分を容認できるほどアスランは己に易しい男ではなかった。

(最低だ…)

最愛の少女を、飢えを満たす獲物と同様に扱おうとしていた自分に吐き気がする。
キラは己の聖域――何者も侵すことを許さず、また誰にも触れさせない、何よりも尊いもの。
それを汚そうとしたのは――紛れもない己自身。

「キラ…」

気を抜けば触れようとする己の手をきつく握り締めてアスランは呟く。
手を伸ばせば触れられる距離にいる愛しい少女の名を紡ぐ声は、悲痛な感情に支配されていた。

わかってしまったのだ――このままではキラを汚してしまうだろう自分の存在を。
愛しくて、ただ傍にいたかった子供の頃とは違う。
ましてや初めて目覚めた本能に怯えていた自分とも違う。
ヴァンパイアとして――何よりも1人の男としてキラを欲している自分がここにいる。

キラのためにどうすればいいか、なんてそんなことは最初からわかっている。

だから、自分はここにきたのだ。

危険な運命からキラを離すため。



何よりもこの愚かな男の触れられない場所にとどめるため――。



「愛している、キラ…」

頬を伝う雫がキラの頬に落ちる。
その雫を指でそっと拭いながら、アスランは呟く。

愛している。言葉にできないほどに。



だから…。



「さようなら」





その唇に触れるだけのキスを一つ落として、アスランは踵を返した。





だが…。



「アスラン…」



離れ難く躊躇うように遅いその足取りを引き止めたのは、キラの声だった。


  • 06.10.30