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Cry for the moon 21


幸福な時間というのは瞬く間に過ぎていく。
それを手にしている時は気付かないが、失い、そして再び手にした今はそれがどれだけ貴重でかけがえのないものかよくわかる。
例えば菫色の瞳が微笑む時。
甘く無邪気な声が自分の名を呼び、楽しそうにはしゃいでいる姿を目で追うその一瞬でさえ、幸せで泣きそうになる自分がいる。

すべての記憶を失ってもなお、彼女が愛しい。
過去は失くしても、これからの未来がある。
そう思えるようになったのは本当につい最近のこと。
子供のように独占欲をむき出しにしていた彼らがそう思えるようになったのは、今という時間がどれだけ貴重なことか十分すぎるほど理解しているからだ。

手の届く場所にキラがいる。
それはアスランだけでなく、5人の幼馴染全てに共通する得難き幸福であった。

だが、いつまでもこのままでいるわけにはいかない。

遠くない未来、彼らは決断を下さなければならない。

それは避けようのない選択なのだ――。



「ミゲルからの報告だ」

上空からふわりと落ちてきた羽を受け止めて、イザークはバルコニーで振り返る。
その表情は固く、あまりよい報告ではないことが容易に推察できたが、彼らは静かにイザークが口を開くのを待った。
闇夜に同化してしまう黒い羽を弄びながらイザークは言葉を続ける。

「ハンターどもが行動を開始したそうだ」

低く告げる声は冷静さを保とうとしていながらも尚隠しきれない憎悪を含んでいる。
日頃から沸点の低いイザークではあるものの、これだけの報告でイザークが動じるはずはなく、おそらく他にもまだ何かあるのだろうと5対の瞳がイザークに注がれる。

「ハイネが、殺られた。相手はラスティを殺した男と同じ人物だろうということだ」
「ハイネが…」

ぽつりと呟いたのはラクスだが、感じたことはその場にいた者全員が同じなのだろう。
アスランが意外そうに、そして無念そうに唇をかみしめる。

「ミゲルの報告では、あの男は間違いなく3年前の襲撃の中心にいる人物だろうということだ。俺もそう思う。ラスティもハイネも一族の中では相応の実力者だ。たかが人間ごとき、傷一つ負わせることなど不可能だ。なのにラスティは抵抗一つできずに消され、今またハイネをも討ち取ることが出来る者など、ただのハンターであるはずがない」
「精霊使い…か」

ヴァンパイアの天敵である精霊使い。
アスラン達も精霊の力を使うことができるが、それでも『精霊使い』であるハンターとの戦いは互角とは呼べない。
五大公と呼ばれ闇の一族の中でも屈強の実力を誇りながら、それでも精霊使いの使う『焔』には抵抗する術を持たない。
勿論ラスティやハイネのように瞬殺されることはないにしろ、相手を仕留めるには相応の深手を覚悟しなければいけないだろう。
だからこそ3年前の五大公は正面から戦うことを避けたのであり、自らの身を犠牲にしてまでも子供達を逃がすことを優先させたのだから。
小競り合いは多々起こしてきたものの、今度の戦いはそれ以上のものになるだろうことは想像に難くない。
どちらかが滅びるまで終わらないだろう。
そしてそれはヴァンパイアであるアスラン達が圧倒的に不利だ。
だが、それでも決断を下さなければならない。

「逃げるわけには、いかないだろう」

そう言いながらも脳裏に浮かんだのはかけがえのない少女の存在。
本来ならば決断を下さなければいけないのは、菫色の瞳の少女だ。
だが、彼女は記憶を失っているためにそれを求めるわけにはいかない。
そうなれば代理として一族の行く末を定めるのは、アスランしかいない。
五大公の筆頭として。
また、長の伴侶として。

「我々も黙って滅ぼされるわけにはいかない。3年前は逃げることしかできなかったが、今は違う。向こうが俺達を滅ぼそうというのなら、相応の報復はしなければならない。黙って滅ぼされる義理などない」

強く言い据える瞳は強い決意を湛えているが、その瞳に以前のような狂気はない。
最愛の少女を見つけたせいかもしれないし、一族の誇りを取り戻したせいかもしれなかった。

「で、どうする?」
「どうする――とは?」

ディアッカの問いにアスランは怪訝な視線を投げかける。

「わかってんだろ? ――姫さんのこと」

ようやく見つけた最愛の少女。
二度と手放したくないのは当然なのだが、何も覚えていない彼女にこの業を背負わせるのは酷というものだ。
大切で大切で、それこそ世界中を敵に回しても惜しくないほど愛しい存在。
だからこそ、彼女の笑顔を曇らせることはできなくて…。

「キラには、告げるつもりはない」

それがアスランの返答だった。

それがどんなにつらくても――。





   ◇◆◇   ◇◆◇





この森を出て行く。
そう告げた時のカナードの瞳は、優しくそして同時に厳しいものだった。

「…そうか」

おそらくカナードはすべてをわかっているはずだ。
アスランが選んだ道の厳しさもキラを置いていくことの辛さも、何もかもわかったうえで返って来たのはたった一言。

「キラを…よろしくお願いします」
「…それで、いいのか」
「はい」

アスランは短く頷いた。
最愛の少女を取り戻しに来たはずなのに、ようやく見つけた少女を置いて去らねばならないアスランの心境を思うと、カナードの秀麗な顔が憂慮に曇った。
アスランがどれだけ深くキラを思っているかなど、見なくてもわかる。
強く深く、それこそ狂おしいほどの想いを胸に抱いているアスランが、正直キラを置いて帰るとは思っていなかった。
それは彼の幼馴染達にも言えることだったが、彼らもまたキラを置いていくことに異を唱えなかったらしい。
その決断にどれだけの意思を必要としたのか。
だが、確かにこの選択がキラの安全にとっては最良のものであることは間違いない。
この世界にいる限り、キラが他者に害される危険は皆無に等しい。
それはアスラン達にも言えることだが、彼らが一族を見捨てることなどできるはずがなく、またカナード自身も彼らの一族すべてを引き受けることはできない。
彼もまた一族を統べるものであり、世界の均衡を保つ者なのだから。

「あれが泣くだろうな」
「おそらくは」
「それでも、行くというのだな」
「――はい」

再会してからすっかりアスラン達に心を許していたキラ。
今では記憶を失っていたとは思えないほどにすっかり打ち解けていたから、別れの挨拶すらなく姿を消す友人達のことを哀しむことは間違いなく、そんな彼女を宥めるのは大変だろう。
その心根の優しさを好ましく思うものの、それがキラの最大の弱点なのだと憂慮せざるをえない。
誰よりも優しく、そして弱い少女。
自分以外の誰かが傷つくことをひどく恐れている。
たとえ種族存亡をかけた戦いだと言っても、キラは誰かが傷を負うことに耐えられない。
ましてやそれが心を許したアスラン達だと知れば、その嘆きはいかばかりのものだろうか。
だからこそアスラン・ザラはキラを連れて行くことはおろか、この森を後にすることさえ告げることができないのだ。
本音を言えば片時も傍から離したくないだろうに、それでもキラを手放すのは偏にキラの身を――そしてその心を護ろうという一途な想いから。

「キラを傷つけるわけにはいきません」

これから歩む先がどれほどの苦境か理解しているからこそ、一緒に行動できない。
どれだけの苦渋のもとに下された決断かは聞かなくてもわかるというものだ。

「わかった。キラの安全は私が保証しよう」

カナードの言葉に、アスランは深々と頭を下げた。

もう二度と会えなくても。

(また失うことになるよりずっといい――)。

キラが笑っていてくれるのなら。



それでいいのだ。


  • 06.09.21