Sub menu


Cry for the moon 19


好きなだけ滞在していい。
そう言い残して姿を消した精霊王カナードが何を考えているか、彼らにはわからなかった。
どうあっても諦めることができなかったキラという存在。
自分達が隙を見て彼女をここから攫っていってしまうとは考えなかったのだろうかと考え、そしてそんな虚しい感情を抱いた自分に対して、アスランはひどくやるせない気持ちになる。

(攫っていく、か…)

本来なら自分達の長として掲げる少女。
それをこの場所から攫うと考えるだけで、すでに彼女が自分達を選ばないと決め付けているようなものではないか。
正式な婚約者であり同族であるはずなのに、その思考はすでに侵略者のそれと大差ない。
それに気付いたものの、最早アスランには自嘲の笑みすら浮かばない。

ようやく目にすることができたキラの無事な姿。
美しく成長した姿にどれほど安堵し、また心が震えただろうか。
姿を見失った3年前と変わらず――それどころか前にも増して愛らしく成長した最愛の少女。
大切に慈しまれて育ったのだろうと一目でわかる愛情に満ちたその笑顔。
だが、自分達に向けられたのは見慣れた笑顔ではなく、どこか緊張した社交用の笑顔だった。

記憶を失っていると、自分達の知るキラ・ヤマトはもういないと、そう告げられた言葉の本当の重みを理解していなかったのだと痛感させられたのはその瞬間。
今までただの一度として向けられたことのなかったその表情に、思わず駆け寄ろうとしていたアスランの足は床に縫いとめられた。
ディアッカもイザークも、そしてあのラクスでさえ一瞬にして表情が凍りついたのは無理もない。
かろうじて対面を保つのに、アスランは最大限の努力が必要だった。
駆け寄って抱きしめたかった。
だがキラにとっては初対面の人物であるアスランがそのような行動を取れるはずはなく、結果綺麗な笑みを浮かべるキラの手の甲に震える唇で触れることしかできなかった。

キラは何一つ変わっていなかった。
至高の宝石のような菫色の瞳も雪のように白い肌も愛らしく笑う口元も、不思議そうに小首を傾げるその仕草の一つすら記憶のものと寸分違わないのに、自分達に関する記憶だけがなくなっていた。
アスラン、と囁かれた名はその口から紡がれることはなく、甘えるようにすりよってきた仕草さえ今の自分には与えられなかった。
カナードやミリアリアそしてフレイによって大切に護られている少女は確かに自分達の知るキラなだけに、その喪失感はアスランの胸を大きく抉っていた。

最愛の人物が自分のことを忘れているということはこれほど辛いことなのか。
先程見せたフレイの憤りも今なら理解できるような気がする。
何を恨めばいいのだろう。
原因を作ったのは人間達だ。だが彼女を護れなかったのは間違いなく自分の力不足が原因で、もしあの時アスラン達にもう少し力があれば無様に逃げることなどなかったし、キラが記憶を失うこともなかった。
ともすればこみあげてくる人間への憎悪に、アスランはきつく唇を噛む。
人間への報復は愚かなことだと、ようやくそう考えられるようになったというのに、このままでは以前の自分に戻ってしまいそうになる。
人間を――ハンターを恨み、彼らを殲滅することしか考えられなかった昔の自分。
そんなことをしてもキラの記憶が戻るわけではないと理屈ではわかるのに感情がついていかない。

(キラ…)

自分の手をすり抜けてしまった大切な少女を取り戻すには、一体どうしたらいいのだろうか――。





   ◇◆◇   ◇◆◇





重苦しい沈黙に包まれた部屋に、楽しそうな笑い声が聞こえたのはしばらくしてからのこと。
軽やかな鈴の音のような声は歌姫ラクス・クラインのもの。
だが、聞こえてくるもう一つの声は――。

「!?」

声が聞こえてくるのは窓の外からだ。
アスランは弾かれたようにバルコニーへ飛び出した。
ディアッカとイザークそしてニコルもそれに続いてくる。
皆一様に信じられないという表情をしているのも無理はない。
先程泣きそうな顔で部屋を飛び出したラクス。彼女の心が絶望に染まっているとわかっていて声をかけることも慰めることもできなかったのは、自分達も同様にうちひしがれていたからだ。
その原因はわかりきっている。
そしてそう簡単に哀しみが晴れることがないこともわかっていた。
だが今外から聞こえてくるラクスの声は心底嬉しそうで、彼女が笑顔を取り戻した理由は一つしか考えられなかった。

「ピンクちゃん、あまり遠くへ行っては駄目ですよー」
『ハロハロ』
「うわあ、可愛い!」
「まだまだ他にも沢山いますわよ。さあ皆さんキラにご挨拶しましょうね」

湖のほとりにある阿屋で談笑している2人の少女の周りを軽やかに跳ねているのは、ラクスの使い魔であるハロたちだ。
実際は愛玩動物のような球体の不思議な生き物だが、見た目に反して意外な攻撃力を持っている。
最初にそれを発見したのは幼いアスランだったが、どうやらハロは女性にしか懐かないようでアスランがどうあっても使い魔にすることができなかったのに対して、ラクスはその微笑一つであっさりと複数のハロを使い魔にしてしまったのだ。
だがラクスは滅多にハロを呼び出すこともなく、時折ピンク色のハロのみを従えていたのだが、眼下のラクスは総勢10匹のハロを召喚しており、騒々しく飛びまわるその様子を嬉しそうに眺めている。
そしてその中心で無邪気にはしゃいでいるのは――。

「キラ!?」

夜着にガウンを羽織っただけの姿でピンク色のハロを追いかけているのは、先程自室に引き上げていってしまったキラの姿だった。
忍んできたのだろうかそれとも急いでいたのか裸足のままで、白い足が汚れるのも構わずに走り回っている姿は以前のキラと同じだった。

「ねえねえラクス。ハロって泳げるのかな?」
「さあ、わたくしは見たことありませんけど、ネイビーちゃんは以前池に沈んでしまったことがありましたから、もしかしたら全員泳げないかもしれませんわ」
「ふ〜ん。じゃあ落ちないように気をつけないとだね」
「そうですわね」

ぴょんぴょんと飛びまわる手のひらほどの球体を追いかけ飛び跳ねている姿に、先程の絶望感など面白いほどあっさり消え失せてしまった。
小さなものが大好きで、いつだって森にいた小鳥や兎と一緒になって遊んでいたキラ。
そういえばラクスや自分の使い魔には並々ならぬ愛情を注いでいたのだ。

「あ〜あ〜、姫さんってば足泥だらけにして」
「相変わらずだな、あいつは」
「キラさんですよね」

先程まで言葉もないほど落ち込んでいた面子とは思えないほど明るい声が背後から聞こえてくる。
自分達のことを忘れてしまってもやはりキラはキラで、その愛らしく純粋な魂は何一つ変わってなどいなくて。
楽しそうに笑っている姿を見るだけで、こんなにも愛しさが溢れてくる。

「トリィ」

アスランは短く使い魔の名を呼び、その手を目線にかざす。
小さな羽音とともに現れたのは緑色の小鳥。
夜にも構わず頭上を旋回してアスランの指に止まったそれは、アスランが使役する使い魔のひとつだ。
アスランが初めて契約した使い魔であり、幼いキラが『トリィ』と名づけて可愛がっていた小鳥である。

「挨拶してこい。お前の大好きなキラだ」

『トリィ!』

愛らしい声で応じた小鳥は嬉しそうにキラへと向かって飛んでいく。
その姿に気付くのは数瞬の後。
定位置のようにキラの右肩に舞い降りた小鳥に、菫色の瞳がふんわりと微笑んだ。


  • 06.08.15