走り去るその瞳が濡れていたことに気付いていたが、結局何もできなかった。
後を追いかけることは簡単だが、それを彼女自身が望んでいないことを彼らはよく知っていたのだ。
彼女と同様に深く落胆している幼馴染にはその弱さを見せたくなかったのか――それとも彼らにラクスを受け止める余裕がないのを察したのかー―無言で走り去った彼女の背中を視線で追いかけるものの、だが彼女が望んでいない以上彼らが足を運んでも他でもないラクスがその手を拒否するだろう。
おっとりと穏やかで、だが芯の強い少女――それがアスラン達の知るラクス・クラインだった。
どこかつかみ所のない存在で常に微笑を絶やさない彼女は、だがその清純な雰囲気とは裏腹に一族でも隋一の魔力の持ち主で、屈指の実力を誇る五大老の子供達の中でも彼女に本気で対抗できるのはアスラン・ザラくらいだろう。それでも本気の勝負となれば周囲への被害はどれほどのものになるか想像もつかないが。
行方不明のキラを単身探し続けた実行力と絶望に呑み込まれない強い精神力の持ち主であるラクスが、現況に耐え切れず逃げ出したということがどれほどのものかわからないわけではない。
あの時―-目の前に現れたキラの元気な姿に安堵したのも束の間、その口から紡がれた言葉は歓喜した気分を一気に闇に突き落とすかのような衝撃を与えた。
首を傾げる仕草も大きな目でぱちぱちと繰り返される瞬きも桜色の唇から紡がれる優しい声も記憶のものと寸分も変わらないのに、その視線には明らかに戸惑いの色があって。
『初めまして、キラ・ヤマトです』
まるで初対面の相手にするようなどこか緊張したような挨拶に、彼女を大切に思ってきた彼らが傷つかないはずはなかった。
それでもその場で取り乱すような醜態を晒さないよう最大限の努力はしてみせた。
ふわりと微笑むその姿にやりきれない寂しさを抱きつつも儀礼的な挨拶を交わし、彼女が部屋を辞すまでは笑顔を保った。
たとえ記憶を失くしてもキラであることは変わらない――そう信じてはいたもののやはり最愛の少女に忘れられたということがどれほど苦しいか本当の意味で理解していなかった自分達の甘さを痛感させられた。
アスランもイザークもディアッカも、そしてニコルも今まで一度としてキラにあんな視線を向けられたことはなかった。
いつだって零れんばかりの笑顔で迎えてくれていた。
甘え上手で泣き虫で、だけどそんなキラを皆が大好きで。
何一つ変わっていなかったから、他人行儀な態度が哀しかった。
「…失ったものは取り戻せないんでしょうか」
沈黙を破った声はニコルのもの。
まだ幼さの残る声は、どのように少ない可能性であろうとすがり付こうとする決意があった。
キラよりも1歳年下で、そのせいかニコルの記憶は常にキラと共にあった。
物心ついてすぐの記憶は目の前で輝く綺麗な紫水晶の瞳で、ニコルと目が合うと嬉しそうににっこりと笑ったことをよく覚えている。
綺麗な紫水晶の輝き。それが自分に向けられていることがひどく嬉しかった。
守るべき存在だと教えられても幼い子供にそんな理屈は関係なく、いつだって一緒に遊んでいて主君というよりはラクスと同様大切な姉のような存在だった。
大好きだった。
いつまでも一緒にいられると思っていた。
だから彼女と離れ離れになったことは哀しくて、自分達を滅ぼそうとしたハンター達への復讐よりも、大好きな彼女を探すことを優先した。
アスラン達が復讐のために人間を襲っていることは随分前から知っていたが、ニコルの心を占めていたのは復讐心でもなければ憎悪でもなかった。
ただ――会いたくて。
自分のすべての過去に存在する大切な2人の姉を取り戻したくて。
優しい姉代わりは何よりも争い事を嫌っていたから、どうしてもアスラン達に同調することはできなかった。
自身が持つ芸術という武器を手に、ハンターと呼ばれる人間達の周囲を調べた。
どうやらあの襲撃で一族を根絶やしにしたと思っていた彼らには警戒心が欠けていて、そんな彼らの動向を探ることは容易かった。
まだ12歳という――彼らの世界では親の庇護の元にいる年齢だからであろうか、突然現れた幼いピアニストに対する彼らの対応は決して悪くなかった。
心優しい少年というニコルの外見は他人を警戒させず話を聞き出すには最適だった。
しばらくしてラクスと再会し、2人で夜毎開かれる夜会に姿を見せてはさりげなく状況を分析していた。
もしかしたらハンターに捕われているのかもしれないという危惧は、だがラクスとアスランの尽力によって杞憂に終わった。
行方がわかれば後は簡単なことで、宮廷音楽家にという再三の誘いをあっさりと蹴って、ラクスと2人夜会から姿を消した。
未練などまったくなかった。
たとえ何百何千という賛辞を受けようとも、たった1人の微笑みのほうがニコルにとっては重要なのだ。
そうして再び巡りあえた大切な少女。
自分に向けられる視線に傷つかなかったと言ったら嘘になる。
いつだって慈愛に満ちた瞳で「ニコル」と呼んでくれたキラから初めましてと言われることは、ニコルが想像していた以上にショックが大きかった。
最もアスランやイザークに比べればまだましな方だったが…。
記憶のない彼女にとって、確かに自分達は初対面の相手だろう。
だが――。
「何か方法はあるはずですよね」
誰に言い聞かせるでもなく、自分自身に告げるように。
ニコルははっきりとそう言い切ると、室内に置かれていたピアノへと歩み寄る。
夜会で演奏していたグランドピアノと造りが違うのは、これが精霊族の手によるものだからだろう。
細部にまで施された見事な彫刻は人間には到底不可能な域で、試しに一音奏でてみればそれは心に染み入るほどの透明感を持っていた。
ラクスの歌が大好きで、ニコルのピアノも気に入ってくれていた彼女。
もしかしたら…、そう願うことは決して無駄ではない。
たとえほんの僅かな希望であろうとも、希望は失ってはいけないのだ。
信じていればいつかは叶う。
自分はそれを知っているのだから。
繊細な指が鍵盤の上をすべり、柔らかな音楽が室内を包み込む。
切なく優しいそれは、キラにせがまれてラクスが何度も歌ったもので。
ニコルは強い願いを抱きながらそれを奏でていた――。
- 06.07.12