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Cry for the moon 17


広い室内を覆うのはすべての希望を失くしたような重い沈黙だった。
柔らかく灯る燭台の光も暗鬱とした空気を払拭することができず、むしろその闇を増幅させているかのように、彼らはソファーに沈んだまま動こうとしない。
部屋に案内したミリアリアが少しでも気分が浮上するようにと用意してくれた果実酒に手をつけるものもおらず、また落胆の激しい彼らの心を慰めるようにと彼女手づから淹れた紅茶も同じく誰も手をつけないまますでに冷め切ってしまっていた。

テーブルに両肘をついて顔を覆ったままのイザーク、疲れ果てたように全身をソファーに委ねているディアッカ、沈痛な面持ちで座り込んでいるニコル、そしてどこか焦点の合っていない瞳でぼんやりと窓の外を眺めているアスラン。
部屋に戻ってから一言も話すことのない彼らの様子が心配ではあったけど、だが今の状況に打ちのめされているのはラクスも同様で。
気持ちを落ち着けようと何度となく手にしたティーカップは、だがやはり口元まで運ばれることなく再びソーサーの上に戻されてしまう。

「やはり…無理でしたのかしら…」

重い沈黙を破って紡がれたラクスの言葉は、どんな状況の中でも希望を失わずに奔走していた彼女の深い絶望を窺わせ、常に朗らかな笑みを絶やさなかった彼女らしくない沈痛な面持ちに慰めの言葉を探そうとしても、おそらくは彼女以上に消沈しているであろうアスラン達にはその言葉を否定することができなかった。

「わたくしは…いえ、わたくし達はキラに会いさえすれば何もかもが解決すると、勝手に思い込んでいただけなのですね」

突きつけられた現実になすすべもなく、ラクスは哀しそうにそう呟く。

キラに会うという当初の目的は達成した。本人の生存もまた然り。
だが自分達はカナードに告げられた言葉の真意を、本当の意味で理解していなかった。

記憶を失っているというキラ。

何も覚えていないと悔しそうに悲しそうに告げたフレイの言葉が今なら理解できる。

おそらくフレイは記憶を失う以前のキラを知っているのだろう。精霊王と契約を結んでいたキラのことだ。自分達が知らないだけで2人がどこかで会ったことがあるのだろう。幼いキラの周囲には常に動物や小妖精の姿があったことは彼らも記憶に残っている。
そこにフレイがこっそり姿を変えてキラの元を訪れていたとしてもおかしくない。
その根拠を立証するように幼いころのキラの前に頻繁に姿を見せていた緑色の小さな鳥――彼女の肩が自分の定位置のように乗っていたその鳥がフレイの変化した姿なのだと告げられてしまえば、彼女の憤りも納得だ。

会えば思い出してくれるだろう。そう安易に考えて希望した対面の場で、彼らは絶望に打ちひしがれた。



『兄様の知り合いの方ですか?』



向けられた瞳は見事な輝きを放つ紫水晶で、その輝きは間違いなく3年間ずっと求めていたもののはずなのに、それは明らかに初対面の相手に向けるもので。

初めまして、と向けられた笑顔の前に彼らの希望は無残に砕かれたのだ。



じわり、と目頭が熱くなっていくのを感じて、ラクスはソファーから立ち上がった。
このままこの場所にいたら、自分までもが失意に飲み込まれてしまいそうで、思わず部屋を飛び出した。

一点の曇りもない朗らかな笑顔、それは間違いなく記憶の中のキラの持つそれで。
紡がれる声もあどけない表情も、そして何物にも変えられない紫水晶の瞳も、自分達が知るあの少女だった。
すべての記憶を失っていても、彼女は間違いなく『キラ・ヤマト』なのだ。
ヴァンパイア一族の正統なる長の娘。
誰よりも尊い純血の闇の一族。
アスランが愛し誰もが親愛を誓った少女が生きてこの場にいるということは、まだ何の希望も失ってはいないのだ。
すべての記憶を失っていることは確かに哀しいことだけれど、だがそれは自分達だけではない。
精霊族も、また他でもないキラ自身も望んでいなかったこと。
それを責めることもできないし、かといって時間を戻すこともできない。

では、どうしたらいいのか。

(わたくしは――)





   ◇◆◇   ◇◆◇





土地勘などないに等しいこの場所で闇雲に歩いた結果、気が付けば中庭らしき場所に出ていた。
ふわふわと漂っている発光体は、こちらに来る際にもいた小精霊達のもので、突然現れた来客に驚いたようにあちこちを飛びまわるものの、本来好奇心旺盛な小精霊が興味深そうにラクスの周囲にふわふわと近寄ってきた。
だがそんな彼らに構う余裕はラクスにはない。
湖の傍にある東屋に腰を下ろし、小さく息をついた。

何も知らないキラにとって自分達は見ず知らずの他人も同然だ。
友好的ではあったものの自分達よりもカナードやフレイ、ミリアリア達を信頼しているのは明白で、そんな彼女に自分達は同族です一緒に元の世界へ戻りましょうなどと言ってもすんなり承諾してくれるとは思えない。
かりにラクスの言葉を信じてくれたとしても、自分が知っているキラと今のキラが同じ性格ならば彼らへの感謝と義理もあって余計に受け入れてもらえるとは思えない。
ラクスとてキラを哀しませたくないのだ。

キラが生きていてくれれば何もかも解決すると勝手に思い込んでいた自分がひどく愚かだった。
現実は甘くはない。そうわかっていたはずなのに、それでも認識が甘かったのは間違いなく自分のミスで。
何もかも上手くいく方法などないのだろうが、それでも何が最良かまだ自分にはよくわからない。

(どうすればいいのでしょう…)

思うようにならない事実にラクスが再びため息をついたその時、風に乗ってピアノの音が聞こえてきた。
ラクス達が通された部屋にはピアノがあった。
もしかしたら気分転換のためにニコルが奏でているのかもしれない。あの場所にいられなくなった自分と同様に。
普段は優しい音色がひどく哀しく聞こえるのは気のせいではないだろう。
音は感情に支配される。ましてやラクスとニコルは『音』を操る能力を持つ。
その効果は他者よりも圧倒的に高い。

気が付けばラクスもまた歌を口ずさんでいた。

(歌は祈り――歌は希望――)

そう願い続けてラクスは歌い続けてきたのだ。
どれほど哀しくてもどれほど辛くても、それでもラクスが歌を失うことはなかった。

大切な少女は、自分の歌をこよなく愛してくれていたから――。

小さな――普段夜会の会場で披露していた歌声とは比べ物にならないほどの弱々しい声。
だがそこにはラクスのひたむきな願いが込められていた。



「今の歌――貴女が?」



背後からそんな声がかかったのは、歌い終わってしばらくしてから。
忘れることのできない声に振り返ればそこにいたのは亜麻色の髪の少女で、驚愕に目を見開いたラクスにどこか申し訳なさそうに苦笑した。

「あれ? もしかして聞いちゃいけなかった?」
「…いいえっ、そんなことはありませんわ。ただ、その…少し驚いてしまっただけで…」
「ならよかった」

慌てて首を振るラクスに、亜麻色の髪の少女――キラは安心したように微笑んだ。
そんな変わらない笑顔に安心したように微笑を浮かべたラクスが、何かの違和感に気付いてキラへと視線を彷徨わせ、そしてその足元に気付いた。

「まあ…」
「あ、気付いちゃった?」

おどけたように小首をかしげて悪びれない様子のキラに、思わずラクスも笑みを浮かべる。
足元まで覆うナイトガウンの下から見える小さな足は裸足で、怪我こそしていないもののその白い足は泥で汚れていた。

「窓を開けていたらすごく綺麗な歌声が聞こえたから、つい、ね」
「窓から降りられたんですの?」
「ううん、さすがにそれは兄様に怒られるし。ちょっと…ちょっとだけ近道したの」

キラの言う近道がどの程度のものか知らないが、やはりそれは褒められたことではないのだろう。
どこかバツが悪そうに告げる姿に思わず眉を顰めたものの、だがこうしてやってきてくれたことがひどく嬉しい。
自分のことなど覚えていないはずなのに、靴を履くことすら忘れるほどに気になってくれたのだ。
それはキラにとって自分がまだ不要な存在ではないと思えることでもあった。

無防備に向けられる笑顔にラクスはふわりと笑みを返す。

あぁ、とラクスは思う。
やはり自分はどうあってもこの少女のことが大好きなのだ。
嬉しそうに微笑む姿を見るだけで、こんなにも幸せな気持ちになれる。
先程の失意も孤独も、浮上できないと思っていた絶望感も、この笑顔一つで簡単に消えうせてしまうのだから。

「わたくしの歌が気に入っていただけたようで嬉しいですわ。ですがあまり危険なことはなさらないでくださいね。ご所望でしたらいくらでもお歌いいたしますから」
「本当?」
「えぇ、何でしたらピアノもお付けいたしますわ」

こくんと頷けば紫水晶の瞳が輝く。

「じゃあ、さっきの曲が聞きたい!」
「はい」



再び歌い始めれば、キラはうっとりと歌声に耳を傾ける。
夢見るように細められた瞳、笑みを浮かべたままの口元。
幼い頃のキラも、よくこうやってラクスの歌を聴いていた。



「……天使の歌声だ」

「―――!?」



ラクスの歌を聴いていたキラがうっとりとそう呟いたのをラクスは聞き逃さなかった。
それは以前キラからラクスに与えられた最高の讃辞。
勿論キラが覚えているわけはないので偶然なのだろうが、それでもラクスが驚くには十分だった。

「僕、貴女の歌すごく好きかも」

無邪気に告げるその言葉に、ラクスがどれだけ救われていたかキラは知らない。
他者を従える能力を持ちながら大切な人の危機に何一つ役に立たなかったこの能力を悔しく思ったことは少なくない。
だが他でもないキラが褒めてくれた歌声だから、ラクスは今まで歌い続けてきたのだ。
キラが好きだと言ってくれたから――。



「え!? ちょ…あの…ラクス、さん…?」

「…ごめん、なさい…」



突然抱きついてきた桃色の髪の少女に戸惑ったものの、その声が震えていることやややして自分の肩口に濡れた感触が広がっていくのを感じて、キラはその細い身体をそっと支えた。

何故彼女が突然泣き出してしまったのか、キラにはわからない。

だが、こうして抱きつかれた感触が何故かひどく懐かしく思えたから、キラはラクスの気持ちが静まるまで優しくその背を撫で続けていた。


  • 06.07.10