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Cry for the moon 11


樹齢500年を超えるだろう若々しさとはほど遠い、だがどっしりと根を張り大きく枝を広げた樹は、おそらくこの森の中でも最古参であることは間違いない。
アスランが慣れ親しんでいたあの結界の森とは少し趣が違うが、それよりもどこか侵しがたい神聖さを感じるこの場所がどこか、アスランは知らない。

生まれてからわずか13年、そのほとんどを宮殿とその周辺の森しか知らなかったアスランがそれ以外の場所を知るはずもなく、また突然の襲撃にただがむしゃらに逃亡を続けていたために、ここがどこであるか地形の把握すらできていなかったのだ。
まして逃走経路からはるか数百メートルもの崖下に広がっていた場所。
この場所が『精霊の森』と呼ばれ、アスランが育った森以上に人間が足を踏み入れることを許されない神域であることを知らなくても無理はない。

神域と呼ばれるほどに人間の気配の一切がない森の空気は静謐で荘厳で、それでいてアスランはどこか言いようのない懐かしさを感じる。
澄んだ空気は3年の間都市に紛れて暮らしていたアスランには、胸が痛くなるほどに懐かしい。
雑然とした都市とはまるで違う、自然の恵みのみで構成された、闇の一族にとってなくてはならない大切な世界。
今は無くなってしまった懐かしい住処に、それはとてもよく似ていた。

だが今アスランの頬を濡らす雫はそのせいではなかった。

大きく広げた枝の間から見える細い身体。
緩やかな風に揺れている、絹糸のように細い亜麻色の髪。
申し訳程度と呼ぶには不適切なほどしっかりと枝に抱きとめられているその姿は、アスランが焦がれてやまなかった愛しい存在で。
落下の際に負ったのであろう小さな傷は数ヶ所に見られたものの、骨折や重傷を負っている気配はない。
長い睫は伏せられたままで、投げ出された腕はぴくりともしないが、この様子からするとおそらくはショックで気を失っているだけなのだろう。
何よりも愛らしい口からはしっかりとした呼吸音が聞こえてくる。

喪ったと思っていた大切な宝玉。
愛しくて仕方のない、唯一無二の存在。
思い描いていた最悪の事態とはほど遠い、まるで奇蹟のようなこの状況にアスランの瞳からまた一滴涙が零れる。

「キラ…」

大切な存在を確かめるように、呟かれた最愛の少女の名前。
ただキラを求め彼女だけを探し続けた3年という歳月。
その存在を確認するように呟かれた声は、隠しきれない歓喜を伴い、ひどく重くその場に響いた。
片時も忘れたことのない面影は記憶の中の少女と何一つ変わっておらず、枝に抱きとめられた態勢のまま軽く喉をのけぞらせた姿は、記憶のものよりも遥かにあどけない。
落下の際、枝にひっかけでもしたのだろうか、そのすべらかな頬や白い腕に幾筋かの赤い線が走っているが、数百メートルという距離を落ちたにしては信じられない程に軽傷だ。

確かに感じる『生』の波動。
それが、何よりも嬉しかった。





   ◇◆◇   ◇◆◇





どれだけの時間が経過しただろう。
依然としてキラの意識は戻る気配を見せず、不安定な状態で眠り続けるキラを助ける術はアスランにはなかった。
どれほど願っても、別次元の住人であるアスランは『過去のキラ』に触れることはできない。
そんな状況に歯噛みをしながら、それでも目を離せばキラの行方を掴むことができず、やるせない思いのまま眠るキラを見守っていたアスランの耳に、小さな足音が聞こえた。
常人ならば聞こえないほどの小さな音だが、ヴァンパイアであるアスランにはしっかりとした音として認識された。
来訪者の存在を告げるその音に警戒心を含んだ瞳で振り返れば、朝靄の中から3体の影がこちらへと近づいてくるところだった。

敵意はないようだが、味方だとは限らない。
むしろ空気に溶けてしまうようなしなやかな気配を纏う彼らが何者であるか分からない以上、アスランにとっては敵も同然だった。
人気のないこの場所で、彼らの目標は一つしかない。

「!?」

乳白色の朝靄の中から姿を現したのは、一組の男女と、そしてアスランの体格と変わらないほど大きな狼の姿だった。
彼らは警戒するアスランの脇をすり抜け、キラの眠る樹の前で立ち止まる。
金髪の男性と栗色の髪の女性は、おそらく人間ではない。
身に纏う空気は明らかに違う。
だがアスラン達と同族というわけでもなさそうで、アスランは警戒を解くことができなかった。
栗色の髪の女性が歩み出て、キラを抱きとめている樹の幹へと手を伸ばす。

『ご苦労でした、老松』

穏やかな笑みとともにそう告げると、風もないのに大きな枝がさわさわと揺れる。
隣に立つ男性が手を差し伸べると、眠るキラの身体がふわりと落下してきた。
それを抱きとめた男性が、眠るキラの頬についた傷を見てわずかに眉を顰める。

『おい、怪我をしているぞ』
『いくら何でも無傷というわけにはいかないわ』
『だが…』
『なら貴方が治せばいいでしょう』
『了ー解』

おどけたように首をすくめる男性に呆れたようなため息を一つついて、女性は背後に控える狼へと視線を向け、無言で頷いた狼と男性の姿が一瞬で消える。

「キラッ!!」

突然の喪失に思わず気色ばむアスランを制するように、目の前の女性の視線が見えていないはずのアスランへと向けられる。

『これより先は我々に任せなさい、ヴァンパイアの子よ』
「!?」

今まで誰もアスランの姿が見えた者はいなかった。
別の次元の住人だから当然なのだが、では何故この女性にだけは見えるのか…。
だが、今はその疑問よりも確かめなければならないことがあった。

「キラを、どこへ連れて行った…」

人間ではない。だが、闇の一族でもないこの女性は、油断できない存在だ。
何の波動も感じさせずに、アスランの目の前からキラを奪った。
放たれる敵意に気付いたのだろうか、目の前の女性が微笑む。
それは慈愛に満ちていて、アスランは一瞬毒気を抜かれた。

『心配はいりません。彼女はしばらくの間我々の元で預かるだけのこと。今のあなたたちに彼女を守る力はないでしょう』

それは事実だ。この時代のアスラン達はハンターの追従を逃れるのに必死で、今頃は国境の峠に向かっているはずだ。
無論子供達はキラを見捨てていくことに強い拒絶を示したが、護衛に阻まれそれは叶わなかった。
彼らがようやく安堵の息をつけるのは、これからひと月も後のこと。
今の彼らにキラの行方を捜すだけの余裕はない。

「キラはどこへ…」
『我々の住処、とだけ答えましょう。彼女が大切ならば、迎えにきなさい』

柔らかな笑顔で告げた言葉が嘘だとは思えない。
たとえその言葉が嘘でも、彼らがキラに害をなす輩ではないことは、わずかな接点からも窺えた。
警戒が緩んだのを感じたのだろう、女性の眼差しが一層柔らかくなった。

『貴方は元の世界へ戻りなさい、ヴァンパイアの子よ』

まるで母親のような慈愛に満ちた声が告げる。
女性らしい繊細な指がす、とアスランに向けられ、アスランは以前と同じ浮遊感を感じた。
ラクスにかけられた次元の転移術。
膨大な魔力を消費するその技を、まるで呼吸をするかのように行使するこの女性の正体が何か、ようやくアスランにはわかった。

ラクスの魔力の源は、母なる大地から得るもの。
ラクスと同じ術を使えるのは、おそらくこの女性がラクスと同等、もしくはそれ以上の大地の力を得ているからで。
そんな存在は一つしかない。

「地の精霊…」

歪む空間の奥で、栗色の瞳が艶やかに笑んだ。





   ◇◆◇   ◇◆◇





唐突に空間が歪んだ。
その状況にイザークが気色ばみ、ミゲルが慌てて席を立つ。
アスランが次元を飛ばされてからすでに十日が経過していた。
時期が来れば戻るというラクスの言葉通り、空間が開いて突然に戻ってきたのは同胞の姿。
歌姫の怒りを買う以前の殺伐とした雰囲気は一掃されており、身に纏うのは五大公の筆頭であり長の婚約者として相応しい威厳と気品に満ちた空気。

「アスラン!?」
「心配をかけたな」

憑き物が落ちたかのようにすっきりとした幼馴染の姿に、思わずミゲルの口から安堵の息がもれる。

「ラクス嬢にも顔を見せてやれ。お前のこと、実は心配してたんだぞ」
「あぁ」

言われるまま踵を返して向かうのは今まで使用されていなかったゲストルーム。
おそらく術の行使から数日は寝込んでいたであろう歌姫の姿は、アスランの予想通り寝台の中にあった。
純白のナイトガウン姿のラクスは戻ってきたアスランの姿を認めてふわりと微笑む。

「お帰りなさいませ、アスラン」
「…ただいま戻りました」
「首尾はいかほどでして?」

まだ少し晴れない顔色のまま、だが真剣な眼差しでラクスは問いかける。
やはりラクスの目的はキラの行方を掴むことだったのだ。
自分よりも遥かに事態を把握している歌姫に、今更ながら頭が下がる思いだ。

「見つけましたよ」
「まあ、ではキラは…」
「えぇ」

湖面のように透き通る青い瞳に、アスランは強い意思を込めた眼差しで頷いて。

「キラは、おそらく精霊王のもとです」

決意を込めた言葉でそう告げた。





   ◇◆◇   ◇◆◇





少女はゆっくりと目を開けた。
普段ならば眠りについたら朝まで目覚めないほど寝つきのよいのだが、どうしてか今日に限って目が冴えてしまったのだ。
窓の外に見えるのは、銀色の輝きを放つ見事な満月。
漆黒の森に降り注ぐ銀の光は、湖面に反射して幻想的な輝きを見せている。
水面に映る木々の影、そして月の姿。
少女は湖面を見つめ、そして空を仰ぐ。
冴え冴えと輝く銀色の結晶。
冷ややかで、でもどこか温かいその光。
それは、何かに似ている。

少女は小さく呟く。

「僕を呼ぶのは…誰…?」


  • 06.02.26