Sub menu


Cry for the moon 05


月齢15。
上空から降り注ぐ冷ややかな光が、街灯のない狭い路地を照らしている。
陽光のように熱を持たないそれは、冴え冴えとしていながらも高潔な印象を与えるせいか、月光の差し込む外界は一種幻想的な雰囲気を醸し出しているように見える。
だがそんな光景に心を配る余裕もないのか、一人の青年が足早に路地を通り抜けていく。
仕立てのいい服装に身を包んだ青年は、一見して貴族階級だと分かる装いをしていた。
隙のない身のこなしといい厳格そうな面差しといい、こんな――中流階級でさえ選ばない貧民街の一角のような――お世辞にも綺麗に舗装されたとは言い難い路地を利用するような身分ではないことは明白だった。
どこか慌てたような――まるで何かに追い立てられるように歩いていく青年の姿は、周辺に住む住人が目撃していたらその事態の緊迫性に気付いたであろうが、生憎周囲はしんと静まり返ったまま。
労働階級が多く住まうこの近辺では夜が更けるのは早く、ましてや満月の夜には殺人事件が多発するこの地域で、用事もないのに外を眺めるような悠長な者は存在しなかった。

だから、気付かない。

彼がもつれそうになる足を叱咤しながら、必死で何かから逃げていることなど――。





   ◇◆◇   ◇◆◇





走っても走っても目的の場所にはたどり着けない。
日頃自分の足で歩くことをしない貴族階級の青年にとって、網目のように入り組んだ貧民街はまるで迷路も同然だった。
自分のいる場所がどこかなのかすら、すでに見当もつかなくなった。
青年は仕立てのいい礼服が汚れることも構わず、その場に崩れるように座り込んだ。
どれだけの時間歩いていたかわからないが全身の疲労は凄まじく、それ以上に精神的に困憊していたために歩くことすら疲れ果ててしまった。

オペラ会場を出たのは何時だったろうか。
馬車に乗り込む際に見えた月の姿は、今も変わらず頭上に輝いている。
それこそ少しも変わらぬ位置にあるそれは、憎らしいほどの静寂を自身に降り注いでいる。
冴え凍るように美しい、わずかの欠片すら見つからない――満月。
貴族達の間で公然と囁かれている物騒な噂を知らないわけではなかった。
何かの呪いだと言う者もいれば、魔物の仕業だと囁く者もいる。
だが、それを信じるほど青年は迷信的でもなければ古典的でもなかった。
もっとも、満月の夜には殺人が起こりやすいからという理由で、ようやく口説き落とした女性との逢瀬を台無しにしたくはなかったというのが本音だったのだが。
友人達の止める声を聞かず、夜の街へと足を踏み出した。

その結果が、この始末――。

後悔先に立たずとはよく言ったもので、青年がいくら軽挙な行動を悔やんでも、だからといって自身の置かれた立場が好転するはずもなかった。

先程から執拗に自分を追い続けている、何者かの影。
決して近づきすぎず、かといって遠ざかることもないそれ。
オペラ会場からずっと青年の背後に張り付いているそれは、いくら振り払おうとしても一向に消える気配を見せず――そして疲れ果てたのは自分。

絶望に近いため息が口から漏れると、耳元でくすり、と笑う声が聞こえた。

「もう終わり?」

まるで無邪気な子供のような、朗らかな声。
だがその内に潜むのは、ぞっとするほど酷薄な響き。

「!?」

振り向いたその先に見えるのは、鮮やかな髪の色。
月光に照らされて淡く輝くそれは、陽光の下で見れば見事なオレンジ色だと気付いただろう。
柔らかな赤銅色の色彩を目に留め、青年は目を見開く。
そこにいたのは自分よりも一回りは若いであろう人物。
青年へと転身を遂げようとする、まだ少年の域を脱していない10代の少年の姿だった。



「初めまして、ミスター」



軽やかな声で少年が笑いかける。
人形のように整った顔は、闇夜の中では異質なほどに美しく。
その美貌は、青年の背筋を凍らせるには十分だった。
少年は口元でかすかに哂う。



「そして、さようなら」



す、と伸ばされた手の先。
銀糸のような細い軌跡を、青年は見る。
細い線が、まるで闇夜を切り裂くかのように目の前で煌いたのを、綺麗だと思った。

それが自身の喉を切り裂いた刃の残像だとは気付くはずもなく――。


  • 05.10.24