殴られると思っていた。
ああ見えて――否、見かけ通り気が強い彼女のことだから、恐らくキラやラクスのように不問の処すなんて虫のいい話はないだろう。
結果的にシンは彼女を騙していたことになるし、彼女が血に酔い半ば正気を保てなくなっていた原因の半分はシンなのだ。
だから、広間へ姿を表したルナマリアが怒っていることに気づいた時、平手の一発や二発は喰らう覚悟をしたのだ。
彼女の怒りを受け止めるのは、原因である自分の義務だ。
だが、まさか平手ではなく拳が飛んでくるとは。
そして鳩尾に抉るように繰り出されるとは、流石のシンも想像できなかった。
歯を食いしばって耐えるべきだったのは頬への痛みで、それは勿論無防備な腹部への痛みを耐える要素にはなり得ない。
「ぐ…っ…」
正直先ほど食べたもの全部逆流しそうな勢いだったが、そこは何とか根性で耐えてみせた。
先日まで敵だった男達の前で醜態を晒したくないということも勿論あるが、男として同年代の少女の攻撃で大きなダメージを与えられましたという印象は与えたくなかった。
誰にって勿論ルナマリアの攻撃を見て目を丸くしているキラにである。
そしてそんなシンにいきなりの攻撃をしかけてきたルナマリアだったが、急所に入ったことは手応えでわかったものの、目の前のシンが予想以上にダメージを受けていないように見えて面白くなさそうに舌打ちした。
キラのお陰かここ数日悩ませていた意識の酩酊もすっかり消えうせた今、記憶に残っているのは自分でも信じられない残虐な行為と、大切な妹に対する辛辣な仕打ちである。
心優しい妹はさぞかし自分のことで心を痛めていただろうと思えば、やはり一発や二発、いやいややはりここは五・六発はお見舞いしてやりたいのが本音だ。
そのまま足技を繰り広げようとして体重を移動させるが、ふと視界に白と黒のドレスの裾が目に入って思いとどまった。
折角キラが用意してくれたドレスなのだ。
しかも「お姫様みたいで綺麗だね」なんて褒められたのだから、その印象を裏切るようなことをしたくない。
それに、一応シンがいなければキラと会うことはなかったのだから、本当に不本意ではあるけれどこの程度で水に流すことにしてあげよう。
「キラ様の前であんたに怪我させたくないからね、これぐらいで許してあげるわ」
これぐらいと呼べるような可愛らしい攻撃ではなかったが、それでも拳一つで怒りを収めてくれるのはルナマリアの優しさかも知れない。
「ルナ…」
「あんたは視野が狭くて馬鹿で、人の話も聞かないどうしようもない奴だけど、一応仲間なんだから、あんただけが悪いってことじゃないわよね」
シンの言葉を鵜呑みにした自分にだって落ち度はある。
そう言って勝気な笑みを浮かべるルナマリアの様子はすっかり以前に戻っていて、シンは痛みを堪えながらもそんな彼女の態度に安心した。
「ルナマリアさん、お気がすみましたらこちらへいらしてくださいな。キラが焼いたマフィンとパイがありますの。召し上がってくださいな。シン様もどうぞお座りくださいな」
「あ、はい。ラクス様」
優しい声で呼ばれて振り向けば、ラクスは既に円卓の前に移動していた。
テーブルの上には数種類のサンドウィッチとフルーツをふんだんに使ったタルト。
それからマフィンやクッキーなどが用意されている。
貴族達が好むアフタヌーンティーというものに似ているが、ルナマリアやラクス達は闇の一族で食物を摂取するという習慣がないために意外だと思う気持ちが強い。
勿論食事をしないわけではないが、どちらかと言うとエネルギーになるメインディッシュを好み、ティータイムは馴染みがなかった。
それはルナマリアが田舎の出身だからなのだろうか。
勧められるまま席に着けば、さっと椅子を引いてくれたのは色黒の男性だ。
何となく気配が自分を叩きのめしてくれた相手に似ているような気がしなくもないが、ルナマリアは残念ながら自分を気絶させてこの屋敷に運んできた人物の姿を見ていない。
顔を見るまでもなく、背後からの一撃で昏倒されてしまったのだ。
一目見ていたらその相手が間違いなく目の前の男性――ディアッカだと気づいただろうが、幸いなことにそれを知らないルナマリアは、美形のエスコートに僅かに緊張しながら椅子に腰を下ろした。
自分の隣にメイリンが座ると2人の前に白磁のティーカップが置かれた。
「キ…キラ様?!」
その給仕をしてくれたのが他でもないキラだということに気づいたルナマリアが慌てて立ち上がるが、キラは不思議そうに小首を傾げてそんなルナマリアを手で制した。
「このローズヒップティーはね、庭で咲いていた薔薇を乾燥させて作ったんだ。香りがとってもいいので熱いうちにどうぞ。ケーキは適当でいいかな? イザーク、お願いね」
「あの…」
「2人は座ってて。大丈夫。イザークは盛り付け上手なんだから」
「いえ…そうじゃなくて…キラ様お手づからだなんて…」
「ん? 紅茶を淹れるのは僕の趣味だから気にしないで。それとも珈琲の方がいいかな? 珈琲だったらミゲルが上手だよ。ミゲルー」
「いえいえいえいえ、紅茶で十分です!!」
扉の前に控えている金髪の男性――恐らく彼がミゲルという人物だろう――に目配せしたキラに、ルナマリアは慌てて首を振った。
目の前では憮然としながらもプレートに丁寧にデザートを盛り付けている銀髪の男性――多分イザーク。
気品漂う外見と言い、キラと随分親しげな様子と言い、恐らく間違いなく一族の中枢に位置する人物だろう。
地方の下級貴族の自分が給仕されるなんて恐れ多いことこの上ない。
「ほらよ」
「あ、ありがとうございます」
「フンッ」
明らかに友好的でない態度。
だが目の前に置かれたデザートは綺麗にプレートの上を飾っているし、ルナマリアの前に置く手つきは優雅だった。
フェミニストというやつだろうか、それともキラの前だからだろうか。
とりあえず、自分の置かれている状況を説明してもらいたいと先ほど拳を叩き込んだシンに目配せをするが、明らかに聞くなという態度で視線をそらされてしまった。
知らんふりで珈琲を飲むシンにもう一発くらい殴ってもいいかなという思いが芽生えたが、許すと言ったのは自分。文句は後で言うことにしよう。
それよりも何よりも。
「えー! これ全部キラさんが作ったんですかぁ?! うわー、凄ーい。パティシエ顔負け。すっごく美味しそう。あ、すみませーん。スコーンの生クリーム大盛りでお願いしまーす。あと生ハムのサンドウィッチも食べたいです」
とりあえず場の空気を読まないでスイーツを前に目を輝かせている妹を大人しくさせる方が先決じゃないかとルナマリアは思った。
- 10.07.27