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Moon Child 16


喉が渇いていた。
一体いつからだろう、よくわからない。
ただここ最近は特に酷くて、水を飲んでも一向に回復しないそれに少々苛立ちを感じることも珍しくない。
吸血鬼の本能がそうさせるのだろうかと思ってはみるが、そうなると1歳年下の妹にその兆候が全く見られないのもおかしい。
そして同胞である麗しい少女にも。

はぁ、と喘ぐように息をつく。

喉が渇く。
この渇きを癒やすのが何か、ルナマリアにはわからなかった。
本能に従って血を啜れば多少は潤うけれど、それでも焼け石に水だ。
喉の奥が張り付くようで、ここ数日は血も水も喉を潤す役には立ってくれないのだ。
どうしてしまったのだろう、自分は。
それまでこんな疑問を感じたことはなかった。
家族を殺されて逃げ続けていた日々の後、ようやく巡りあえた仲間と一緒に暮らせる喜びを感じていた頃には無縁だった苛立ちと飢え。
吸血鬼は確かに人間の血を糧として生きるけれど、ルナマリアはまだそこまで血の味を覚えていたわけでもないし、どちらかといえば大気のエネルギーを吸収する方が性に合っていたものだから、それほど大きな飢えを感じたこともなかったのだ。

変化があったとしたら半年前。
薄桃色の髪の少女と出会ってからだ。
ルナマリアと同種の少女。だがその位はルナマリアよりも遥かに高位で。
慈愛に満ちた美しい顔と、一度聞いたら忘れられない妙なる声。
一族の平和を取り戻そうと人間を滅ぼすことを決めてから、ルナマリアの身体は大きく変わってしまったようだ。
殺戮を好む残虐な悪魔へと。
自分は強いと信じて疑っていなかった。
だって人間はいつだって自分の姿を見れば怯えて逃げ惑い、殺さないでくれと泣いて懇願していたから。
だから信じられなかった。
目の前に現れた敵に一撃も浴びせることなくあっさり返り討ちにされたことが。
意識を取り戻したのは一体どれくらい時間が経ってのことだろうか。
広い室内には厚いカーテン。
光をあまり好まないからそれに関して不都合はない。
だが、動きを拘束するように後ろ手に縛られているのは気に入らない。
普段ならばこんな拘束くらい簡単に外せるのに、どういう仕掛けかどれほど暴れてもびくともしないのだ。
忌々しいことこの上ない。
思い返すのはあの男。
顔はよく見えない。見る前に倒されてしまったから。
ただ、自分よりも遥かに高い身長と、闇夜に映える銀糸だけが記憶に残っている。

(覚えてなさい)

顔もわからない男に毒づいてみるが、その相手の手の内に納められているという事態は屈辱以外の何物でもなかった。

(闇の一族に手を上げたこと、しっかりと後悔させてあげるんだから)

どうしてやろうか。
仲間になると嘯いてやれば、男なんて単純なんだからすぐに信用するだろう。
拘束を外させてしまえばこちらのものだ。
簡単に殺してなんかやるものか。
自分に手を上げたこと、死ぬほど後悔させてやらなければ気がすまない。
あまり美味しいとは思えなかったが、そこそこ力はありそうだから血肉を喰らうのもいいかもしれない。
生きたまま心臓を抉り出せばどんな顔をするだろう、それも楽しいかもしれない。
くすり、と笑みが浮かんだ。

「お姉ちゃん…?」

不意に声が聞こえた。自分を呼ぶ声。
良く知る声なのに、雑音にしか聞こえなかった。

「お姉ちゃん、大丈夫?」

うるさい。
心配そうな声が耳障りだった。
そんな声で名前を呼ばれる理由などない。

「お姉ちゃんってば!」
「うるさいって言ってるでしょ!」
「きゃあっ」

近づいてきた手を思わず振り払えば、小さな悲鳴と共に何かが転がった音がした。
振り返って目に入る傷ついた瞳。
赤い髪――自分と同じそれ。

「お、姉ちゃん…?」
「メイ、リン…?」

急速に頭が冷えていくのを感じた。
目の前にいたのは妹。たった一人残された大切な自分の…。
甘ったれで我儘で、でも素直で可愛い自分の大切な妹。
無事だったのかと安堵する反面、そんな妹の存在すら今の自分は気にもしていなかったことに気づいて愕然とした。
たった2人きりの家族なのに、無事かどうか気にもしていなかった。

「あ…あたし…」

飢えを感じていた。全てが憎かった。

でも、どんな時でも妹のことを忘れたことなんてなかったのに。

「ご、めん…」
「お姉ちゃん?! 泣かないでお姉ちゃん」
「ごめんね、メイリン」

情けなくて涙が出た。
妹を守るどころか苛立ちとともに攻撃しようとしてしまった自分が情けない。
一体どうしてしまったのだろう。
自分はこんなにも短気ではなかったはずなのに。
こんなにも薄情では、なかったはずなのに。
変わってしまった自分を自覚してしまえば、心を占めるのは恐怖ばかりだ。
まるで別人になってしまったかのような気性の変化が怖かった。
手が拘束されていなかったら、多分間違いなく先ほどメイリンに攻撃していたはずだ。
戦闘能力なんてほとんどないメイリンだ。
何十人という人間を一撃で葬ってきたルナマリアの攻撃から逃げられたとは思えない。
誰だか知らないが、拘束されていたことを感謝しなければいけない。
一歩間違えば自分が妹を殺してしまったかもしれないという事実は、狂気に落ちそうになっていたルナマリアを正気づかせるのは十分だった。
そして足元から這い上がってくる恐怖心。
小刻みに震える身体を自覚しても、それを抑える術を知らない。
いつからこんなに凶暴になってしまったのだろう。
自分はただ、皆と仲良く暮らしていきたかっただけなのに。
妹が無事だったのは嬉しかったけど、たった2人は寂しかったから。
だから仲間に会いたかっただけなのに――。

(誰か――)

助けて欲しい、誰とも言わずそう願ったその時、小さな音と共に扉が開かれた。

かすかに入ってくる光。
その中央に見えるその姿に、ルナマリアの瞳から涙がこぼれた。


  • 09.12.04