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Moon Child 13


思いもよらないキラの台詞によって固まったシンの硬直が解けたのはそれからすぐだった。
夜通し続いた死闘、闇雲に逃げ続けた結果体力はかなり消耗しており、又、怪我の回復のためにエネルギーの消費は著しく、張り詰めた気が解けた瞬間に身体が訴えたのはエネルギー供給。

つまり有体に言えば空腹で腹が鳴ったのだ。
育ち盛りの少年、しかも現在は諸々の理由で疲労困憊だ。
状況を察したキラが何か簡単なものを用意すると席を立ってから、シンは羞恥と自己嫌悪でベッドに突っ伏してしまった。
初対面の――しかもかなり好感を抱いている自覚がある少女――に晒しまくった醜態は今更どう繕っていいかわからない。
唯一の救いなのは彼女が嬉しそうだということか。
それでも一応男としてのプライドはあるわけで、情けないことこの上ない。
部屋に残されたのは薄桃色の髪の少女とシン。
そして部屋の中を飛び回っている不思議な球体。
歌姫の髪と同色のそれは愛らしいと言えなくもないが、感情の窺えない姿のくせにどこか油断ならない感じがして正直不気味だ。

『ハロハロ』
「ピンクちゃん。あまり動き回っては駄目ですよ」
『ハロ。マカセロ』

…何気に口も悪い。
彼女が気分を害した様子は見られないから、おそらく元からこういう口調なのだろう。
歌姫と一緒にやってきた謎の球体。
これはもしかして使い魔というやつなのだろうか。
それにしては今まで見たことも聞いたこともないのだけれど。
気になるけれど、目の前の少女に確認する気にはなれなかった。
穏やかに微笑む姿は天使のよう。
虫も殺せないような外見をしていながら、先程シンを襲った衝撃はかなりのもの。
おそらく彼女にとってシンは敵にすらならない。
威嚇にしては強すぎる一撃、それは彼女の力を知らしめるには十分で。
反応すらできなかったシンに対して彼女は眉1つ動かすことなく、あれだけの力の行使だったのにも関わらず、ラクスにとってそれは些細なこととでも言わんばかり。
実際ラクスにとってあの程度の力は大したことないのだろう。
一族の特徴なのか、概して女性の方が魔力が強い。
それでもラクスの力は桁違いなのだと言わざるを得ない。
それと対照的に何の力の片鱗も窺えなかったキラ。
彼女が長なのだと言う。
そしてラクスはそれを肯定した。
それならば間違いなく、キラは長なのだろう。
長についてシンは知らない。
ただ、誰もが長には逆らえないということだけ聞かされていた。
その意味で言えば、確かにキラは長だ。
ヴァンパイアに、そして長という人物に対して深く昏い憎悪を抱いていたシンですら、彼女に危害を加える気にはなれない。
むしろ彼女の傍にいるだけで泣きたくなるほど嬉しく思ってしまうのだから。
厨房で自分のために食事を用意してくれる姿を想像すれば、不思議と笑みが浮かんできて。
家族を失ってからこのように心が躍ることなどなかった。
これが長の魅力なのだろうか。
そうだとしたら、悪くない。
ただ、あまりに警戒心がなさすぎて心配にはなるけれど。
自分が言うべきことではないと重々承知している。
それでも見知らぬ男――しかも明らかに人間でない上に満身創痍なのだから、曰くがあるのは間違いなく。
そんな男を拾って看病するのは、少々どころでなくかなり危険ではないだろうか。
咎める者はいなかったのだろうかと思い、そしてこの屋敷に人の気配が驚くほど少ないのに気づいた。
いるのはおそらくキラとラクスの2人だけ。あとは使い魔程度か。
女2人だけ屋敷に残していくなんて何て不用心なんだと、脳裏に浮かんだ蒼髪の男に思わず悪態をつくが、そういえばそう仕向けたのは自分達なのだと今更ながら思い出した。
喜んでいいのか悪いのか。
1人くらい護衛を残しておけよと思ったが、ラクスがいれば十分なのだろう。
実力は嫌というほど思い知らされた。
それならキラの行動をもう少し何とかしたほうがいいのではないだろうか。
世の中にはもしかしたらキラの魅力が通じない奴らもいるだろうし、もしこれがミーアだったりしたらいくら長だからと言って自分のようにキラを慕うとは到底思えず、そうなったらキラだって危害を加えられるかもしれない。
ラクスほどではないにしろ、彼女も中々の実力の持ち主だ。
とは言ってもそれを直接キラに言うのは何故か躊躇われて、シンは観念したようにラクスを見た。

「…あんたさあ、あの人にもう少し他人を疑うように言ってやれよ」
「あら、どうしてですの。人を信じることはキラの美徳ですのに」
「だからさ、悪い奴に騙されたり痛い目に会わされたりしてからじゃ遅いんだよ。って俺が言うのも変だけど」

何せシンは当事者だ。
そう言えばラクスはふんわりと笑った。

「そんな心配は無用です。だって、わたくしたちがキラを守ってるのですもの。キラに何かあるはずがありませんわ。あなたがキラに何かしようとしたら、その前にあなたの命が終わるだけの話。闇の一族が不死身だなんて思わない方がよろしいですわよ。力の差はご存知ですよね」

そう、もう二度とキラを危険な目になんてあわせるつもりはないのだ。

「はいはい。確かに俺なんてあんたにしてみたら軽く捻りつぶせるような存在なんでしょうよ」
「まあ、よくご存知で」

くすくすと笑う姿は本当に愛らしい。
台詞と背後に渦巻くどす黒いオーラが見えなければの話だが。

「とにかく。キラの思うようにさせてあげてくださいな。そうすればあなたの命運も少しは伸びるでしょうから」
「は?」

言われた言葉の真意がわからず首を傾げる。
キラに拾われたこと以外に何か含んでいるように思えて問い返そうとしたその時、扉が開いてキラが姿を見せた。

「お待たせ、シン。たくさん食べてね」

ワゴンに乗せられている手料理とわかる品々、そして満足そうなキラの笑顔に、2人の会話はそこで終わった。





   ◇◆◇   ◇◆◇





予想以上に手間取った。
獲物は取り逃がし、不覚にも負わされた傷はそう簡単に治ってくれなかった。
血の匂いを残したままキラの元へ帰ることもできず、近くの泉で汚れを落として傷が目立たなくなるまでに半日が経過した。
朝になっても戻らない自分を彼女は心配しているだろうか。
自分がいないからと言ってあまり無茶をしていなければいいが。
ラクスがついているから彼女に何かあるとは思っていないが、それでも最愛の少女のことはいつでも気にかかるのだ。
多分庭に出るなと言っておいたけれどそれは無理だろう。
子供を宿しているとは言っても悪阻などの症状もなく、まだ腹部のふくらみもほとんど目立たないのだから、アスランが戻ってこないからと言って日課である散歩をやめるとも思えない。
仕方ないと嘆息しつつも、そんな自由な彼女が愛しいと思ってしまうあたりアスランも末期だなと自覚している。
結局、彼女が笑顔でいてくれればいいのだ。
そんなことを思いながら屋敷の門をくぐれば、迎えてくれる温かな笑顔。


「アスラン、お帰り!」
「只今、キラ」

ふわりと抱きついてきた細い身体を抱きとめる。
血の匂いは消えているだろうか。

「何か変わったことは起きなかった?」

頬へのキスと毎日同じ質問。
過保護だと笑われたが、アスランにとってキラが変わりない日常を送れることはとても重要だ。
何もないと言われることを期待していたアスランに告げられたのはいつもと違う内容の言葉で。

「あのね、森でお友達を拾ったの」
「拾った?」
「うん、怪我してたから連れてきたの。アスランにも会ってもらいたいな」
「怪我ってひどいのか?」
「ううん。そうでもないよ。回復力が早いっていいよね」

せいぜい小鳥か子兎程度だと思っていた。
怪我した小鳥を拾ってくるのは初めてではないから。
だが腕を引かれた先にあったのはキラの私室ではなくて、普段使われていない客間。
ラクスが付いているんだよという言葉に感じたのは違和感以外の何物でもなく、ノックをして扉を開けると、そこにはキラの手作りのオートミールを食べている黒髪の少年の姿。
驚愕に目を見開くアスランを前に、スプーンを咥えたままの少年はひどく居心地が悪そうで。
2人の微妙な空気に気付かないキラだけがにこにこと嬉しそうに笑っている。



「シンって言うの。僕の友達」



見えない嵐が室内を吹きぬけた。


  • 09.04.02