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Moon Child 12


「あ、ラクス。ちょうどいいところに来た」
「本物?!」
「まあ、わたくしをご存知ですの?」

ふわりと笑う姿は華やかながらも清楚な雰囲気を醸し出していて、外見こそ瓜二つだが、彼女が全身に纏うその清純さこそがシンの知る歌姫とは大きく違っていた。
薄桃色の髪よりも僅かに薄い色のドレスに身を包んだラクスは、だがシンが先程呟いた名前のことを聞き逃してはいなかったようだ。

「貴方は先程の狼さんですね。わたくしをどなたとお間違えになったのでしょうか、お聞かせいただけますか?」

問う声は穏やかで甘いが、向けられた蒼瞳の奥に浮かぶのは警戒。
それもほんの少ししか見せていないため、シンの隣にいる少女はちらりとも気づいていないだろう。
それでも、そのほんの僅かな警戒はシンに彼女の本質を悟らせるのに十分だった。
歌声が彼女の武器だと聞いていた。
妙なる美声で人間を虜にしているのだと。
それは間違いではないだろう。
少女特有の柔らかいイントネーション、耳に心地いい響きは確かにシンですらうっとりと聞き惚れてしまいそうなほど美しい。
シンが知る歌姫――ミーアは、外見と声は確かに瓜二つだろう。
だがミーアとラクスは決定的に違っていた。
内包する魔力が天と地ほども違う。
向けられた蒼の瞳。そこに宿る警戒。
耳の後ろがチリチリと警鐘を鳴らしている。
彼女は強い。おそらくはシンよりも――そして先刻対峙したアスランよりも。
ラクスはただシンを見据えただけだ。でもそれだけでわかってしまった力の差。
彼女は気づいている。
シンが歌姫の名を騙る少女を知る人物であることを。
戦うか、それとも逃げるか。
シンの脳内を咄嗟に占めたのはそれだけだった。
戦うことは無理だ。
哀しいけれど実力が違いすぎる。
アスランと対峙して感じた力の差。
ラクスにはそれ以上のものを感じるのだ。
キラに気づかせないまでもしっかりと臨戦態勢のラクスと対峙して、シンに勝ち目は皆無に等しいだろう。
そうなれば取る手段は残された一つ。
危害を加えようと思ったわけではない。
ただ、咄嗟にあった手を掴んで引きずりよせようとしたのは無意識の反応。
闇の一族としての生存本能に従っただけの行動だった。
その手の持ち主がキラであることに気づいて己の手を止めようとしたのだが、その行動は少々遅く、それがラクスの逆鱗に触れるには十分だった。



「っ!!」
「シン?」



全身を貫いた衝撃。まるで落雷を浴びたようで息が詰まる。
悲鳴を上げなかったのは矜持ではない。
あまりの衝撃に声が出なかっただけだ。
その容赦のなさはあの憎い藍色の髪の男よりも上ではないだろうか。

「キラに危害を加えることは許しません」

口調は穏やか。だがその声はぞっとするほど冷ややかだ。
そんな歌姫の様子にキラは一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに元の表情に戻って笑顔を向ける。

「やだなぁ。大丈夫だよラクス。シンがそんなことするわけないじゃない」

こんなにいい子なのにとシンの頭を撫でられた。
正直それどころじゃないのだが、キラに信頼されているということが無条件でシンの心を浮き立たせた。
痛みに顔を歪ませながら、それでもキラに触れられることを至福と感じる表情を浮かべていることにシンは気づいているのかいないのか。

「ごめんね。ラクスちょっと勘違いしちゃったみたい。まだ痛い?」
「…いや、大丈夫」

本当はまだ息も整わないほど苦しいのだが、申し訳なさそうに覗き込む菫色の瞳を見てしまえば不安を取り除いてあげたくて。
何とか出せた声で安心させるように告げれば、ほっとしたように綻ぶ顔に知らず自分の顔にも笑みが浮かんだ。
その様子を観察していたラクスは、ややして小さくため息をついた。
シンに問いただしたいことはいくつかあるけれど、この様子を見ればシンがキラの敵に回る可能性は低いだろう。
彼女は一族の長。
誰もが彼女の前では膝を折る。それは彼女の存在を知らなくても同じ。
理性ではなくて本能。
長に逆らうことは誰であろうと不可能なのだ。

「…まあ、キラがそう言うのでしたら今回だけは見逃してあげますわ。長の言葉ですもの」
「ふふ、ありがとうラクス」
「いいえ。キラが拾ってきた黒狼さんですもの。キラに仇なすはずがありませんものね」
「そうだよ。シンはいい子なんだから」

ふふふと笑うラクスの瞳にシンへの敵愾心は既にない。
あまりにも早い変わりように驚くけれど、その前に先程の彼女の言葉に聞き捨てならない台詞が入っていたような気がするのだが。



「え…? 長…って、キラが…あの…まさか…」



ずっと憎んでいた。
仲間を助けてくれなかった闇の一族。そして何も知らないでヴァンパイアに守られている長を。
この手で殺してやると誓ったのは確かに自分だった。
その長がキラだと言うのだろうか。
この――無力で善良でラクスに比べて何の魔力も感じない、一点の曇りもない春の陽だまりのような少女が。

「あ、そうか。ちゃんと自己紹介してなかったね」

ぺろりと舌を出す仕草はとても無邪気で。
そんな姿はどこにでもいる少女そのもの。
浮かぶ笑顔に自分の心が軽くなるのは、確かに他の少女と違うけれど。



「キラ・ヤマト。一応、闇の一族の長やってます」



愛らしく小首を傾げて告げられた言葉に、今度こそシンの思考はフリーズした。


  • 09.03.21