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Moon Child 10


見る夢はいつも悪夢だった。
泣き喚き逃げ惑う幼い子供、奪われた子供の助命を願う母親、妻子を守るために自らの命を差し出す男。
悲鳴と狂気と血臭だけの悪夢。
それしか見ないのは、シンの記憶がそれしかないからだ。
奪われ、そして踏みにじられた日常。
産まれてから16年、シンの記憶は絶望に叩き落されたあの1日しか思い出すことができないのだ。
幸せな時代もあった。実際シンが生まれてから育った16年の間は楽しいことばかりだったのに、たった1日がそれをすべて奪い去った。
それ以来シンは懐かしい記憶を封じた。
思い返せば失ったものの大きさに心が壊れそうになるから。

だから、シンは夢の中でも彼らの笑顔を見ることはないのだ。



人間を恨むようになったのは必然だ。
彼らはシンからすべてを奪った。
まだ14歳だった幼いシンが生きていくには、憎しみを糧にするしかなかったのだ。

その先に何があるかなんて考えることもなく――。





   ◇◆◇   ◇◆◇





優しいぬくもりを感じた。
2年前に失くしてしまった温かい何か。
かすかに触れるそれに引かれるように目を開けると、自分から離れていく白い何かがあった。
消えていくぬくもりに思わず手を伸ばし、そして掴んだそれが人の手だということに気づいた。

「あ、気がついた?」

耳に心地いい声。
見知った誰のものとも違うそれに戸惑いつつ視線を上げると、少し驚いたように見開かれた紫水晶の眼差しとぶつかった。
深い湖面のように静かさを宿した、とても綺麗な瞳。
そして明らかになる自分を見下ろしている顔。
見知らぬ人物の姿に一瞬身体が警戒に強張ったが、安心したように細められた紫水晶の輝きにすぐに力が抜けた。
理屈ではない、本能の何かが安心だと教えてくれたような感覚に戸惑いつつも、シンはその輝きから目を話すことが出来なかった。
綺麗な瞳。
慈愛に満ちた眼差しとはこういうことを言うのだろうか。
もうすでに思い出せなくなった母の眼差しは、もしかしたらこのようなものだったのかもしれない。

「…?」
「君、森で倒れてたんだ。ひどい怪我をして動かないから心配したけど、さすがに回復が早いね」

でもまだ動けないと思うから大人しくしていてね。
柔らかく耳に響く声に無意識に頷いた。
どうしてだろう、この声に逆らう気が起きない。
追われている立場としては、一刻も早く自分の住処へ戻らなければならないことはわかっているのだが、頷いたシンに安心したように微笑む少女を前にするとそんな気がうせてしまうから不思議だ。
怪我をして運び込まれてきたというからには、おそらくこの屋敷には彼女以外の人物もいるのだろう。
いくらまだ子供と言える程度の体躯しか持たないシンであっても、同年代の女性に運べるほど軽くはない。
ましてや目の前の少女は自分よりも年下ではないだろうか。
細い腕と華奢な体躯を見ればたった一人でシンを運べるとは思えず、また室内の様子から見ても彼女が一人で暮らしているとは到底思えない。
天蓋付の豪奢なベッド、艶が出るほど磨かれた見事なオーク材の家具。
広い部屋は塵1つないほどに掃除されており、大きな窓から見える庭園は広大だ。
都市部からは離れているが、相応の貴族の邸宅にしか見えないこの場所は長居するには適していないだろう。
目の前の少女は見るからに善良そうだが、家人が不審人物であるシンを見過ごすはずがない。

「め…いわく…」
「ん? 何?」
「迷惑、じゃないのか…俺…」
「どうして? 迷惑だったら連れて帰ってこないよ。安心して傷を癒してね」

おそらくは名家の令嬢。
シンは目の前の美少女の素性をそう判断した。
着ているものは質素だが素材はシルクだし、見事な光沢を持つそれは最高級品に間違いはないだろう。
部屋を飾る調度品もシンの住んでいた村では見たことがないほど繊細な模様が施されているし、壁にかかっている絵画も美しい。
シンが何度となく襲撃した屋敷と趣が似ているように見えるし、何よりも彼女が身にまとう雰囲気がとても優雅だ。
白い手は指先まで手入れが行き届いているし、滑らかな肌は労働階級のそれではない。
シンが嫌う貴族なのだろうとは思うのだが、それでも目の前の少女に敵意を抱くこともない。
同族であっても慣れ親しむことを嫌うシンにしては珍しい感情に、だが当の本人は気づくことができなかった。

優しい感情。
それは家族を亡くしてからシンには無縁なものだった。
1人で彷徨っていた頃、シンは何度か声をかけられることがあった。
相手は妙齢の貴婦人が主だったが、総じて親子ほども年の離れた大人ばかりだった。
シンが孤児だと知ると可哀相にと涙ぐみ、援助をしてあげようと善意を持ち出してくる者も少なくなかった。
だが彼女たちが見せる善意の背後には打算と計略と欲望が渦巻いており、金銭的に余裕のない者はシンを人買いに売ろうとしたし、余裕のある者は己の虚栄心を満たすための道具にしようとした。
また、男女問わず下卑た欲望を押し付けてくる輩も少なくなかった。
それらを利用しつつシンは生きてきた。
誰だって自分のことしか考えられないし、見ず知らずの他人など構う必要性などないのだから。
利用できるものは全て利用すればいい。
己の外見が妙齢の女性に好かれるといことを知ってからは、情報を仕入れるためにそれを利用した。
どうせ相手はシンのことを本気で心配などしていないのだ。
ならばそれを利用して何が悪いというのか。

家族でもない限り無償の善意などあるはずがない。
そう信じ込もうとしていたシンに、だが目の前にあるのは紛れもないそれで――。

「安心していいよ」

笑顔でそう言われただけなのに、心が震えるなんて――。

「君、名前は?」

「……シン。シン・アスカ」

初対面の相手に名前を名乗るなんてこと、今まで一度もしたことがないのに。
目の前の少女が嬉しそうに微笑むから。

「いい名前だね。僕はキラ。ゆっくり休んでね、シン」

大切そうに名前を呼んでくれるから。
慈しむように頬を撫でてくれるから――。



涙を止めることができない。



――やっと見つけた――



そう感じた理由も、今のシンにはわからなかった。


  • 08.11.04