目を開けると隣にあるはずのぬくもりはなかった。
どれほど遅くなろうとキラが目を覚ます頃には必ず隣にいるはずの恋人の姿がないことにキラは珍しいと呟いた。
もう既に陽は昇っている時間だろう。
窓辺に歩み寄りカーテンの隙間から外を窺えば、キラの予想通り外は明るく雲ひとつない青空が広がっている。
ここ数日は天気が悪く雨の日が多かったものだから、久しぶりの快晴に思わず笑みが浮かんだ。
闇の一族は基本的に昼間は能力が低下するのだが、キラだけは例外だった。
むしろ一族の異能を持たないキラは日中ですら人間と同じように過ごすことができるし、何故か人間と同じような行動を好む傾向があった。
元気に飛び出していく姿はとても一族を率いる長だとは思えない。
アスランがいれば間違いなく無自覚だと怒るだろう。
だが今この場にアスランはおらず、又、キラの行動を咎める者も存在していなかった。
向かう先は勿論ホール。その外に広がる広大な庭だ。
森に住む動物と仲がいいせいだろうか、日中に森を散策するのがキラの日課になっている。
ここ数日は雨のせいで森の動物たちも巣穴へ篭り姿を見せてくれなかったために、キラは上機嫌で屋敷を抜け出した。
屋敷の周囲は強力な結界が張られているので、万が一にも人間に見つかるような危険性はない。
アスランとラクスが2人がかりで張った結界は強力だ。
たとえハンターであろうとこの結界を破ることは不可能に近いため、キラは安心して外に出ることができるのだ。
尤も、いくら安全だとは言ってもキラを単独で行動させることに強い拒絶を見せる仲間のために、護衛を付けることは忘れない。
「トリィ」
一声呼べばすぐにやってくるのはアスランの使い魔だ。
キラは使い魔を持っていない。
使い魔とは主の命令を聞くだけでなく、主の身を守る護衛でもある。
使い魔を持たないキラは身を守る術を何一つ持たないも同然で、そんなキラのためにアスランが護衛役として使い魔であるトリィをつけているのだ。
トリィは手のひらサイズの小鳥だが、愛らしい外見に反して攻撃力は中々のものだ。
危険を察知する能力も高く、何よりもキラ自身がトリィを気に入っているため、キラが外出する際には必ずといっていいほど一緒にいる。。
尤も小さな身体は護衛としては少々不安が残るのだが、キラが外出するのはせいぜい周辺の森程度、屋敷の半径1キロはアスランとラクスによって強力な結界が張られているため、危険性は限りなく低い。
護衛というよりは付き添いのようなものだ。
ちょこんとキラの肩に降りたトリィは小首をかしげてキラを見上げる。
愛らしい仕草に小さくつつけば「トリィ」と小さな声が耳元で響く。
本来ならばアスランの使い魔であるトリィだが、一緒にいる時間は圧倒的にキラの方が長い。
ラクスからはアスランよりもキラが主のようだと言われるが、こうして見ているとその通りかもしれないと思うこともある。
元々キラは動植物に好かれるのだ。
闇の一族の異能を持たないものの、それでもキラが長となることに誰一人異論を挟まなかったのは、キラのこの特性によるものが大きい。
高貴な紫水晶の瞳は慈愛に満ちており、その姿は誰もが心を奪われる。
存在そのものが至宝と呼ばれるほどの美しさは、精霊王が唯一親愛を誓った相手でもある。
そんなキラだが本人はまったくの無自覚で、自身は何の力もないと信じて疑わない。
確かにキラは闇の一族――それも最強と言われるヴァンパイアの能力は備わっていなかったが、キラはヴァンパイアではないため異能がなくて当然なのだが、それを知る大人たちは5年前の事件で全員死亡している。
キラは先代の長が残した唯一の娘だ。
闇の一族の中でも長だけが異能を持たないのだが、残念だからそれを知る人物はいない。
自分がヴァンパイアだと疑っていないのだから知らなくても無理はないだろう。
森へと続く道を歩いていけば、どこからか気配をかぎつけたのか小鹿や子兎が姿を現した。
見慣れた動物の姿にキラが微笑む。
3年間精霊界で過ごしたせいかキラは動物と一緒にいるのが好きだ。
言葉は通じないがその分気持ちが通じるらしい。
挨拶をするように近づいてくる小鳥に笑顔を向け、キラは森の奥へと進んでいく。
アスランはキラが森の奥へ足を踏み入れることをあまり好まないが、森の奥の泉はキラのお気に入りの場所なのだ。
最近その泉の近くに小鳥が巣を作ったこともあり、この長雨でどうなったか気になっていたので、心の中でアスランに謝っておく。
◇◆◇ ◇◆◇
「あ」
見知らぬ姿を見つけてキラは足を止めた。
森に住む動物はすべて顔見知りだ。友人と呼べるかもしれない。
だからこそ、目の前にいる黒い狼の姿に違和感を抱いた。
目の前に狼の姿。
人間が開発と称して森を奪っていったせいか、狼の数は激減している。
その姿はこの森においても一度も見たことがなく、動物たちから聞いた限りでは狼はこの森には存在していないという。
ただでさえ珍しい遭遇、だがその姿が全身傷だらけとなればキラが放っておくことなどできるはずもなく、泉のふちに倒れている狼へと慌てて駆け寄れば、更なる違和感を抱いた。
「この子、同族だ」
闇の一族だからこそわかる、同族の気配。
「となると、人狼…?」
キラの身長ほどではないが大きな体躯。
細身の身体はもしかしたらまだ子供なのかもしれない。
全身に未だ消えない深い傷。
闇の一族の中でも人狼の治癒力は髄一だ。
一体いつ傷を負ったのかはわからないが、塞がっていない傷口から相当の深手を負っていることは容易に推察できた。
見事な艶を持つ黒い体毛が血に濡れているのは見ていて痛々しい。
息があることを確認して安堵する。
見たことがない相手だが、同族であることに間違いはない。
キラは箱庭の中で育てられたようなもので、幼い頃からごく一部の同族としか接していない。
正確に言うならヴァンパイアしか知らないのだ。
闇の一族には他の種族もいることは知識として知ってはいたものの、それでも幼い頃のキラは屋敷からほとんど出ることができなかったし、精霊界にいた頃は精霊以外と接したことはなかった。
戻ってきてから同胞を探してはいたものの、2年という短い歳月では見つけることはできなかった。
こうして目の前に同族がいることは喜ばしい。
だが、どうして彼はこんなに深手を負っているのだろう。
この森は安全のはずなのに。
「可哀相…」
とりあえず一番ひどい傷口だけハンカチで止血をしたが、傷は全身に及んでいる。
じわりと滲んでくる赤いしみに、キラの眉が哀しそうに顰められる。
気遣うように触れた身体は予想以上に冷たくて、生命力が強いとは知っていても心配になる。
そっと撫でると、伏せられていた瞼が僅かに震えた。
かすかに開かれた瞳は深紅。
ヴァンパイアの瞳に似ているそれは、だがもっと深い宝石のような輝きを持っていた。
綺麗だと思ったそれがかすかにキラを捉えた。
「マ…ユ…?」
一瞬で潤んだ眼差しから雫がこぼれる。
「生き、てた…。よか…た…」
かすれる声、ふりしぼるようなそれは祈りにも似ていて。
誰かと間違えているのだとわかっていたけれど、否定することはできなかった。
「ご…めんな…、オレ…。お前の、こと、守るって…」
「大丈夫だよ。大丈夫だから、早く元気になって」
「う、ん…」
そこまでが限界だったのだろう。
すぐに意識を失った身体をキラはゆっくりと抱えた。
想像よりも重量があり、持ち上げることはできない。
頭を膝に乗せることが精一杯だ。
一刻も早く屋敷に連れ帰りたいのだが、1メートル近くある身体を抱えて帰ることはキラには無理だ。
逡巡するように視線を彷徨わせ、そこにある物を見つけた。
一頭の牡鹿。
キラが幼いころから一緒に遊んだ鹿は、何故かとても気位が高くてキラ以外の人物を背に乗せることを嫌がった。
ラクスですらその背を許さなかった彼は、果たしてキラの望みを叶えてくれるだろうか。
「お願いしても、いい?」
窺うように見上げると、逡巡するように巡らされた視線の後、観念したかのように牡鹿は首をたれた。
- 08.10.15