油断していたわけではない。
人狼の攻撃力は闇の一族の中でも髄一だと言われていたし、実際に自分の能力は一族の誰にも劣るようなものではないと自負していた。
それは自惚れではないはずだ。
一族の中でも有数の攻撃力を持つ人狼。
その中でも長の血を受けて生まれた自分だから、他の一族など相手にならないと疑っていなかった。
身体能力も攻撃力も反射神経も決して負けていないはず。
いくら相手が闇の一族の中でも最高峰に位置する吸血鬼であろうと、人狼の破壊力には比べるべくもないのだと、そう思っていた。
実際吸血鬼であるルナマリアとの力比べでは、自分の方が圧倒的に強かった。
ルナマリアの身体能力を考えれば、決して弱くはないだろう。
それでもシンの敵ではなかった。
己の能力に、この憎しみを持ってすれば誰であれ適うはずがない。
そのはずなのに。
まさか、ここまで歯が立たないとは――。
「――ちっ」
放たれた衝撃波をかわすことができたのは運がよかったというよりも、相手が手加減をしているのだと気づいたのは、体勢を立て直した直後に背後に感じた笑い声だった。
「ほう、よく避けたじゃないか」
「――っ!」
翡翠の瞳に愉悦。からかっている。
ギリ、と歯をかみ締めて飛び退った。
反転して振り返れば、漆黒の外套を風になびかせたままの美貌の青年。
汗ひとつかいていない。
それどころか完全に遊んでいるようにしか見えない。
自分と大して年が変わらないというのに、この余裕はどういうことか。
吸血鬼という種族か、それとも五大老と呼ばれる地位のせいか。
どちらにしろ幼子を相手にするように手加減されているのは気分がいいものではない。
シンの渾身の一撃は小さな手の一振りだけで霧散する。
得意の接近戦に持ち込もうにも、相手の懐へ飛び込むことができない。
目の前の男がそれをさせない。
「性格、悪すぎ…っ」
「趣味なんだ」
「弱者をいたぶるのが、かよ!」
「自分を弱者と認めるのなら、そういうことになるな」
嫣然と微笑む姿。
闇に溶ける漆黒の髪、白皙の美貌。ひたりと向けられる翡翠の相貌。
他者を従えるのが当然という、その傲慢な態度。
何もかも違いすぎる。自分と。
悔しい悔しい悔しい。
傷1つつけることができない自分の不甲斐なさに。
そして、シンの感情などわかっているだろうに、敢えて逆上させるような行動を取る目の前の男に。
五大公は精霊を使役できると聞いたことがある。
だが目の前の男――アスランはそれを行使する様子は見られず、それは言外に対等に相手をするだけの価値がないのだと言われているようだ。
侮っていたわけではない。
だが現実は相手の度量も測らずに挑みかかったようにしか見えない。
その事実が更に苛立たしい。
(悔しいけど、格が違いすぎる)
脳裏を掠めたのは、薄桃色の髪の少女。
復讐を決めたのは自分だ。
だが、そこに便乗した人物がいたことは事実。
ラクス・クラインと名乗っていた。
本物であるかなんてシンには関係がなかった。
クライン家が五大公の一家だというのは知っていた、ラクス・クラインがその後継者だということも。
『わたくしに協力してくださいませんか?』
そう朗らかに言った少女を信じたわけではないけれど、好都合だと手を取ったことは間違いだったのだろうか。
彼女はどこへ行った?
そして、他の仲間は――。
ルナマリアは他の追跡者と交戦していた。
一緒にいたのはメイリンだ。実戦には向かない彼女を連れて、ルナマリアがどこまで応戦できるだろうか。
自分の相手が五大公である以上、ルナマリアが対峙している相手もおそらく相応の実力者だろう。
血に酔っていた彼女、大人しく逃げてくれればいいが。
額から流れる血が視界を遮る。
わずかに目を閉じた一瞬、死角から放たれた攻撃が横腹に入った。
「…っ…!」
嫌な音が聞こえた。
吹き飛ばされることはかろうじて堪えたが、激痛に膝が折れる。
「聞きたいことがある」
「く…っ」
髪を掴んで顔を上げられた。
傲慢な支配者のそれ。なのに瞳は驚くほど静かで。
呼吸が苦しい。折れた肋骨が肺を圧迫しているのか。
治癒能力は高いが、だからといって一瞬で治るわけではない。
「歌姫はどこへ逃げた?」
「う、たひめ…?」
彼女の動向など知らない。
追跡者に気づいて別行動を取ると決めたとき、逸早く姿を消したのが彼女だった。
追跡者を待っていたように見えたのは気のせいだったのかと思うほどにあっけなく雲隠れしてしまった彼女に、不審を感じなかったと言えば嘘になる。
だが彼女と自分は同じ目的の元に行動しているだけの関係で、彼女が自分を守る義務はないし、逆もまた存在しない。
だから気にしていなかった。
シンは目の前の敵を倒すことしか考えていなかったのだから。
「へへ…ざまぁ、ねえな。逃げられた、んだ…」
「無駄口は許していない。質問に答えろ」
「っ!!」
肩に激痛。今度は砕かれたか。
優男にしか見えないというのに随分と馬鹿力だ。
そう罵りたいが口を開ければ悲鳴が出そうで、心中で毒づいた。
悲鳴を堪えたのは、ただの矜持だ。
手も足も出ない上に無様に泣き喚くことだけはしたくなかった。
「知らないのか、それともただの駒だったのか…」
低く呟いた声が癪に障った。
どこまで他者を見下せば気が済むというのか。
吸血鬼がそれほど偉いのか、五大公がどれほど立派な地位なのか。
一族を助けてくれなかったくせに。
押さえ込んでいた腕を掴む。渾身の力で。
メキ、という音が聞こえた。苦悶に歪む翡翠。
「あんたに、話すことは、何も…ない!!」
「っ!?」
肉を断つ感触。腕の一本も落としてみせたかったが、それでも骨を折るくらいはできただろうか。
渾身の力で地を蹴った。
空は明るく白み始めている。
吸血鬼は闇の一族の象徴だ。
日の光の下では能力が鈍る。
だが、シンは違う。
確かに夜ほど力は使えなくなるが、それでも吸血鬼ほどには光に弱くない。
逃げることは不本意だ。
だが、自分はまだ死ぬわけにいかないし、勿論捕らえられるわけにもいかないのだ。
森の中に消えていく影を目で追い、アスランはため息をついた。
「遊びすぎたか…」
ポタリ、と落ちる雫を忌々しそうに眺めて小さく呟いた。
獲物は5人。その中でも一番大きな力を有している人物を追ってきたのだが、それは目的の人物ではなかった。
上手く逃げられたのだと気づいた時には、目の前の少年に興味が移っていた。
漆黒の髪、深紅の瞳。
アスランよりも2〜3歳ほど若いだろう、まだ幼い少年。
憎悪を瞳に宿した少年は、やはり在りし日の自分によく似ていた。
違うのは感情の全てが表情に反映されることくらいか。
興味が湧いた。
力の差は歴然だったから少々遊んでみるのも面白いか。
常にはない好奇心に負けたのがいけなかったのだろうか。
捕縛できる目標は逃げ、珍しく手傷を負わされた。
「失態だな」
他の仲間が偽の歌姫を捕まえてくればいいが、おそらくそれは望めないだろう。
アスランにすら気配を掴ませない偽者。
どうやら少々厄介なことになりそうだ。
- 08.10.01