船で10日。
オーブとザフトの距離はそれほどに遠い。
陸路を使えば数日は早まるが、未だ情勢の安定していない大陸を横断するには些か武力に心許無い。
尤も大陸一の大国であるザフトに対して真っ向から攻めてくるような真似はしないだろうが、だからこそ今回は敢えて陸路を避けた。
大切な姫君。
オーブの斎姫であり、間もなくザフト王太子妃となる尊い女性を少しでも危険に晒したくないという、ザフト王太子アスラン・ザラのたっての希望だ。
何一つ不自由のないように。
その意向のもと設計された外洋船は設備も整っているし、何よりも揺れに強い。
それは船旅など生まれて初めてであろう姫君の体調を慮った上であることは間違いなく。
「愛されていることで」
軽く笑ったディアッカの言葉に異を唱えるものはいなかった。
オーブからの随員はわずか5人。
本来なら数十人はくだらないであろう降嫁の旅にしてはあまりにも人数が少なすぎる。
ザフトから随員の人数制限はしていないはずだが、あまりにも少ない人数にさすがに不信感が浮かんでくる。
ちらりと見えたあの素顔。
神々しいまでに美しいあの少女が替え玉だとは思えなかったけれど。
「少なすぎるのも却って怪しいもんだな」
花嫁の付き添いの侍女が2人。
どちらの少女も花嫁と大差ない年代だ。
どうやら主従の関係だけでなく仲がよいのだということは、時折聞こえてくる笑い声から窺える。
あとは護衛の兵士だろうか、花嫁の船室の前に控えている男が2人。
イザーク達と年齢の変わらない、まだ若年と呼べそうな青年だ。
存外見目がいいことから、もしかしたら外見で随員に選ばれたのかとも勘繰ったが、どうやらそれなりの実力はありそうだ。
そして雑用をする小者が1人。こちらも意外と見目がいい。
姉姫の様子からして大切に慈しまれてきたのは間違いないのだが、それにしては質素な随員だ。
もっともザフト側の使者の数は百人に及ぶから、数として見劣りするということはないのだけれど。
「あー、なんか姫さんが断ったらしいぜ。オーブを愛している者はこのまま留まれってな」
「斎姫が?」
「そ。まあ姫さんの知り合いっつったら神殿に仕える巫女さんたちばっかりだろ。全員がついてくるっつってきかないから、結構困ったって話してたぜ」
「……お前、どこでその話を聞いた」
オーブを経ってからまだ1日。慣れない揺れのせいで侍女の1人が体調を崩したと聞いた。
ザフトの技術を駆使して作られた外洋船は、他のそれに比べて圧倒的に揺れが少ない。
勿論揺れが皆無というわけではないから、船に乗ったことのない女性が気分を悪くしても無理はない。
斎姫手ずから面倒を見ているということを聞いてご機嫌伺いを避けていたというのに、何故ディアッカが自分よりも彼女らの事情に詳しいのだろうか。
剣呑な眼差しを向ければ、返ってきたのは悪びれない微笑。
「姫さんの侍女から聞いた。偶然ばったり会ってね。臥せってる侍女のために何か果物でもって言うから親切丁寧に運んでやったら教えてくれたんだ」
嘘つけ、とイザークは内心で毒づく。
何が親切丁寧だ、と思う。
実力はあるがザフト一の女たらし。
ディアッカ・エルスマンの名はザフトの妓楼で知らない者はいない。
「ああ、そういえば」
胡乱な眼差しに気付いているはずなのに、そんなことは気にならないとばかりにディアッカは言葉を続ける。
「姫さんが正式に挨拶をしたいから、時間があいたら部屋に来てくれってさ。侍女からの伝言」
瞠られる薄青色の眼差し。
「それを早く言え!! この馬鹿がっ!!」
勢いよく踵を返した上官の姿に、ディアッカはくつくつと喉を鳴らした。
薄布の下からのぞいた麗しい美貌。
風に吹かれたら消えてしまいそうなほど儚い姿は、なるほどオーブに伝わる天女のようだ。
ふわりと微笑む姿は慈愛に満ちていて、存在そのものが奇蹟のように美しかった件の姫君。
神秘的なものに弱く、且つオーブという国に多大な関心を持っていたイザークが一目で魅せられたのは間違いない。
そう、長い付き合いだからこそイザークの好みは熟知している。
ラクス・クラインといい斎姫といい、イザークの趣味はこのうえなく良い。
ここで姫君に横恋慕したイザークがアスランから花嫁を掻っ攫ったりしたら面白いのだが。
「ま、そんなことあるはずがないけど」
馬鹿がつくほどに実直で、堅物。
イザーク・ジュールという男をディアッカは知りすぎていた。
◇◆◇ ◇◆◇
「遠路はるばるご苦労様でした」
大急ぎで訪問したイザークが非礼を詫びるよりも早く、頭上から柔らかい声が降ってきた。
ふわりと心に染み入るような温かい声。
「いえ、こちらこそご挨拶が遅くなりまして…」
頭を垂れたまま告げれば、次いで降ってきたのはくすくすという軽やかな笑い声。
「どうぞ、顔を上げてください」
「はっ」
促されて顔を上げれば、明らかになる麗しい顔で。
見事な菫色の瞳に笑みを浮かべていた。
決して小さくない船室。用意された椅子に腰を下ろした斎姫はすでに着替えを済ませていたらしく、出発の際に見せた豪華な花嫁衣裳ではなく薄紫色の簡素な衣服に身を包んでいた。
背後に控える侍女と大差ない衣装は、おそらく皇族としては相応しくないのではないかと思うが、巫女の衣装なのだと言われて納得する。
「実は僕あまり堅苦しいのが好きじゃなくて」
「キラ…じゃない姫様!」
「いいよ、ミリィ。どうせ10日も誤魔化せないし」
僅かに瞠られた薄青色の眼差しをどう解釈したのか、小首を傾げて苦笑する姿は先程よりも随分と幼い。
「ということなので、あまり気にしないでくれると嬉しいんですけど。ええと、イザークさん?」
「…はい、了解しました。斎姫」
「その斎姫っていうのもやめてもらえますか? もう斎姫じゃないんだし、キラでいいですから」
ミリアリアもフレイもそう呼ぶからと言われれば、侍女が盛大にため息をついた。
一応礼儀とか体裁とかあるんだけど、という侍女の呟きは見事に黙殺されてしまったようだ。
「あ、この子が僕の乳姉妹のミリアリア。で、こっちで寝てるのがフレイ。どちらも僕の大切な親友」
「好きで寝てるんじゃないわよ…」
朗らかに笑う声を不機嫌な声が遮る。
寝台で臥せっているのは、体調を崩したというもう1人の侍女だろう。
燃えるような炎色の髪が印象的だ。美しいと呼べなくもないが、かなり気が強そうだ。
「フレイ、船苦手だって言ってたもんね。無理しないでオーブに残っててもよかったのに」
「嫌よ。あたしがいなかったらあんたの世話は誰がするのよ。他の誰かに譲る気はないわ」
「はいはい。じゃあ早く治ってね」
嬉しそうに笑えば、満足そうな笑みが返ってくる。
随分と仲がいい。そんな微笑ましい関係に思わず口元を緩めてしまえば、侍女の眼差しが少しだけ和らいだような気がする。
「そういうことなので、道中警護よろしくお願いします。イザークさん」
「かしこまりました。…キラ姫」
ばいばいと手を振る花嫁の姿に口元が緩むのも仕方ないだろう。
天女かと思うほど神々しい外見に反して、内面はひどく愛らしい。
ラクスとはまた違った純真さを前にしては、さすがのイザークも常の態度ではいられないものだ。
アスランは知っているのだろうかと思い、ふと苦笑する。
どちらでも構わない、と微笑む姿が目に浮かぶようだ。
愚問だった。
「あ、イザーク殿」
去り際、ミリアリアと呼ばれた侍女に呼び止められる。
「貴方の部下に伝えて欲しいんだけど」
部下というのは、ディアッカのことだろうか。
それ以外にこちらの侍女と話をした相手をイザークは知らない。
「ディアッカ・エルスマンに、でしょうか。侍女殿」
「ミリアリアでいいわ。私に敬語は必要ありません」
きっぱりと告げる声には威厳がある。
優秀な侍女なのだろう。それだけでわかる。
だが、ミリアリアに浮かんだ表情は先程までの朗らかなものとは明らかに違っていて。
照れているというよりは、怒っているような眼差しにイザークが怪訝そうに眉を顰める。
「今度私に近づいたら、平手打ちじゃすまない。そう伝えてください」
主に聞こえないように低く告げると、目の前の扉を勢いよく閉められた。
「……………何やったんだ、あいつ?」
とりあえず、戻ったら一発殴ってやろう。
イザークはそう心に決めた。
- 07.03.01