ザフト国と言えば、50年ほど前では大国に挟まれた小さな国でしかなかった。
大きな運河に面し背後を険しい山に囲まれた国。
大国の脅威に怯えながらも、地の利を活かして数少ない独立国として成り立っていた。
武力に秀でているわけでもなく、また各国のように天然資源に恵まれているわけでもない。
そんなザフト国が世界でも例を見ないほどの大国となったのは、ここ数十年の間。
知略に富み卓越した指導力を発揮した現王パトリック・ザラと彼の側近によって、ザフトは他国の脅威に怯える必要がないほどに発展することができた。
そして今、ザフト国は唯一『帝国』の名が冠されることを許されている国となっている。
その首都アプリリウス。
様々な人種が入り乱れる都市は活気に溢れており、交易の自由を認めているせいか運河を行き交う船の数も多い。
大通りには定期的に市が開かれ、各国から行商にやってくる商人達の商魂たくましい声が響いている。
そしてそんな大通りの先にある白亜の宮殿は、まるで国の様子を一望できるかのように広い。
その広い宮殿内を足早に進んでいる一人の青年の姿があった。
窓の外に広がる庭園もその先にある見事な運河も目にする余裕などないように、彼は秀麗な眉を顰めたまま目的の部屋を目指していた。
絹糸のような銀髪が歩くたびにさらさらと揺れ、彫像のように整った頬を撫でる。
その様子に女官達が思わずため息をつくが、元から他人に関心が少ない上に直情型な傾向にある彼の性格上、そんな彼女達の様子に気付く様子などない。
近衛隊隊長の身分を示す純白のマントを翻しながら、彼が向かったのは執務室ではなく宮殿の東南に位置する離宮。
現王の唯一の息子であり次代の王となるべき人物が住まうそこは当然のように屈強な兵士が門を警護していたが、幼い頃から共に育ってきたイザークは近衛隊隊長という身分も相まって警護に見咎められることはない。
恭しく開けられる扉をもどかしい思いでくぐり、まっすぐつきあたりの部屋を目指す。
「アスラン!!」
大きな音と共にそう叫んだイザークの先にいるのは、一歳年下の幼馴染兼主君の姿。
ザフト帝国王太子、アスラン・ザラ。
成人を迎えたばかりの姿は、だが少年と呼ぶには凛々しさを増しており、またここ数日で更に精悍さも磨かれているようで、入室してきた自分を見つめる姿は王者としての風格すら備えているようでもある。
若い頃から王の片腕として政治の一端を担ってきた彼は、成人を迎えてからほとんどの政務を代行するようになっていた。
自身が拡大したザフト国の膨大な国土を統治するにふさわしい人物になるようにとの王の目算なのだろう。
最初のうちこそまだ成人して間もない若者に権力を分散させることに対して批判的な意見もあったが、父王の意図を汲んだ上で尚且つ国民の生活向上を旨とした彼の手腕に次第にそのような声も消え、パトリックが拡げた領土を息子のアスランが秩序正しく統治していく様はこれからのザフト帝国の未来を示唆しているようで、今では彼が政務を担うことに不満の声は一切上がっていない。
近い将来確実に名君として名を残すであろう青年は、幼馴染の乱暴な入室に目にしていた書類から視線を動かした。
理知的な翠玉の眼差しに端整な顔立ち。
明晰な頭脳だけでなく容姿にも恵まれた彼は、いつもの如く眦を吊り上げている幼馴染の姿にほんの少し眼差しを緩める。
「相変わらず騒がしいな、イザーク」
呆れたような面白そうなその表情に、1歳年上のイザークの眦は更にきつくなる。
嫌いだというわけではない。
むしろその手腕は誰よりも認めているものの、どうあってもこの取り澄ました余裕な表情を前にすると素直になれないのだ。
年下だというのに可愛げがない、というよりは何もかも悟りきった様子の幼馴染の姿が、人間らしさを感じさせないような気がして好きではないのだ。
「…噂を聞いた」
「何の噂だ?」
「…お前と、オーブの姫との婚約の話だ」
「あぁ、そのことか。随分早いな。もうお前のところに話が行ったのか」
「お前からオーブへ申し入れしたという話は本当なのか?」
「本当だ」
務めて冷静に話そうとするものの、返ってきたのは妙にさっぱりとしたもので。
気がつけば、目の前のテーブルを拳で叩いていた。
「お前は、ラクス嬢と婚約するんじゃなかったのか!!」
幼い頃からアスランの婚約者となるべく育てられたラクス・クライン。
現王パトリック・ザラの腹心であるシーゲル・クラインの愛娘であり、ザフト帝国でも有名な歌姫は、桜色の髪と乳白色の肌を持つ、見る者を惹きつけてやまない美少女だ。
そして、そんな春の花のように愛らしい姿に相応しく、慈悲深く国民思いの優しい心根は貴族のみならず多くの国民からも愛されている。
彼女ならばきっと誰からも認められる王妃になる。
そして政務に疲れたアスランを影となり日向となり支えてくれるだろう。
そんな歌姫との婚約をどうして破棄しようというのか、イザークには理解できない。
「彼女の名誉はどうなる!?」
「…ラクスには悪いことをしたと思っている」
「悪いことをしたですむか!! 女性にとって婚約を破棄されることがどれほどの不名誉かわかっているのか貴様!!」
「だが、まだ正式に婚約をしたわけではない」
「していたも同然だ! お前とラクス嬢のことは国中が知っているんだからな!」
元来フェミニストであり、また一人の人間としてラクス・クラインの人柄に惹かれていたイザークにしてみれば、今回のアスランの態度はあまりにも不誠実に思える。
以前ならば帝国の領土拡大だと思えなくもなかっただろう。
だがここ数十年で世界におけるザフトの地位はゆるぎないものとなっており、今更領土保身や平和協定のための政略結婚など行う必要などないはずだ。
ましてやオーブはザフトからは遠く離れた島国。
オーブという国は神秘的な国であるとともに天然資源も豊富で同盟を結ぶ魅力は十分にあるだろう。
だが、それは何も婚姻という形でなくてもよいはずだ。
「ましてやオーブのじゃじゃ馬姫など…、ラクス嬢の何が不満だったんだ!!」
オーブの姫といえば、イザークの耳にも多少情報が入っている。
ウズミ・ナラ・アスハの娘、カガリ・ユラ・アスハ。
オーブの獅子の娘らしく、その性格は勇猛果敢で男勝り。
兄カナードの片腕となるべく日々武術の鍛錬を怠らない姿は姫というよりも王子といった風体で、男装して城を抜け出すなど日常茶飯事で、そのせいか国民からの支持は高いらしい。
遠く離れたザフトまで聞こえてくる彼女の武勇伝はあまりにも『姫』という存在からかけ離れていて、そんな女性を未来の王妃として迎えることは到底認められないことだった。
だが、アスランはイザークの言葉にわずかに首をふる。
「俺が求婚したのはカガリ姫じゃないぞ、イザーク」
「はあ!?」
イザークの知る限りオーブの姫といえばカガリ一人しかいない。
元々国内の情報が流出しにくいお国柄のオーブだが、王家の人間くらいは国家の中枢にいれば自然と耳に入ってくる。
ましてやイザークはオーブに対して強い興味を持っている。
そんなイザークでもオーブの獅子にカガリ以外の娘がいるという情報は入っていない。
イザークの情報が間違っているのか、アスランが思い違いをしているのか…。
「イザークは『オーブの斎姫』の存在を知っているか?」
イザークの考えがわかったのだろうか、どこか苦笑を浮かべながらアスランが視線を向けてくる。
その表情が普段の取り澄ましたものではなく、どこか柔らかさを感じるのは気のせいだろうか。
「オーブの斎姫? 神殿に仕える巫女のことか?」
オーブはザフトと違い唯一神を崇める国だ。
建国の祖・女神ハウメアを崇め、今もなお神に仕える巫女が多数存在する。
斎姫と呼ばれる程なのだから、その地位は決して低くないのだろう。
「生まれた時から神殿に入り、その生涯を国のために捧げる、オーブの秘された姫のことだ」
「そんな話は知らんぞ」
「勿論国外に情報が漏れることなどありえない。彼女の情報は一切神殿から漏れることはなく、異性との接触は一切禁止される。彼女が対面を許されるのは姉姫カガリ・ユラ・アスハだけだろう」
国内でも知る者の少ない斎姫の存在を一体どうやって知ったのか。
そしてザフトの国外へほとんど出かけたことがないアスランが、一体どうやってその存在を知り得たのか。
そして、こと異性に関しては淡白すぎる性質のアスランが、このようにうっとりとした表情を浮かべていることがひどく気になった。
「その斎姫を、お前はどうやって知ったんだ?」
「ある事情があってね」
「会った、のか?」
愚問だと思いつつも訊ねてみれば、却ってきたのは蕩けるような笑顔で。
「奇蹟のようだったよ」
「アスラン?」
「彼女はとても繊細で綺麗で、まるで天上の女神の化身かと思った…」
うっとりと夢見るようなアスランの表情は、長い付き合いのイザークですら初めて見るもので。
だからこそ強引に婚姻を結ぼうと考えたのだろうと、普段見せないアスランの態度にもようやく合点がいく。
「彼女を手に入れることができるなら、俺は何もかも捨てられるだろう」
ザフト帝国王太子という立場も、生まれ育ったこの国すらも。
そう言い切ったアスランはまるで知らない人のようで、難色を示したオーブを説得するそのなりふり構わない態度から、この婚姻が成立しなければオーブに斎姫を攫いに行きそうな気がして、最終的にイザークが外交を担当することで1年がかりで何とか今回の婚姻へとこぎつけることができたのだ。
今までずっと秘されていた存在。
神に仕えるオーブの斎姫。
今回の婚姻を成立させるためにどれだけの時間と労力を費やしただろう。
最初から無理を承知で求めた斎姫、当然のことながら周囲から向けられる視線は穏やかなものだけではない。
オーブの秘宝。
神の娘。
そう称され国民が口にすることすら憚れるほど高貴な存在である少女が、今この扉の先にいる。
あのアスランが焦がれ求めてやまなかった、奇蹟の少女。
その少女と間もなく対面できると思うと、使者の立場だとわかっていながら逸る心を抑えることができない。
檜の一枚扉がゆっくりと開いていく。
荘厳な神殿の中から現れてきたのは、数十人はいようかという巫女の姿と、その中心に佇む豪華な白い衣装を身に纏った小柄な少女。
頭上から薄布を纏っているのが、件の姫君なのだろう。
恭しく支えられながら一段一段階段を下りてくる姿は触れたら消えてしまいそうに儚く、アスランの形容が何一つ誇張されていないことを知る。
神殿の正装なのかオーブの花嫁衣裳なのか、幾重にも重ねられた単は白を基調として銀色が使用されており、まるで雪色の衣装のようだ。
ふわりと頭上にかけられた薄布は淡い水色で、春の柔らかな風に揺らめく様はどことなく幻想的だ。
斎姫がふと足を止める。
視線の先にいるのは男装をしている金髪の少女。
泣きそうな顔をしているのが遠目からでもわかる。
おそらくあれがカガリ・ユラ・アスハ。
妹姫の出立にいても立ってもいられなかったのだろう。
息を切らせたまま馬上にいる少女を前に、斎姫はするりと薄布を脱ぎ捨てた。
陽光の下、露わになるその素顔。
肌は透けるように白く、優しい光を浮かべる眼差しは極上の宝石を思わせる紫色。
すらりと通った鼻筋や、まるで花びらのような小さな愛らしい唇。
絹糸のような栗色の髪は長く足元にまで届いている。
美形が多いザフトの中でも見たことがないほど、何もかもが奇蹟のように美しいその姿に、その場にいる者たちの口から賛美ともどよめきともつかない声が漏れる。
斎姫は少女に向かってふんわりと微笑みかける。
柔らかく慈悲に満ちた笑顔は、確かにこの世のものとは思えないほどの神々しさがあったが、それ以上に姉を労る妹姫の優しい心根を感じさせた。
(なるほど、あのアスランが惹かれるわけだ)
触れたら消えてしまいそうなほど儚いくせに、何もかもを包み込む包容力を感じさせる。
そういう人物は嫌いではない。
目の前に差し出された手を取り、彼女を船へと誘導する。
そして、ザフト帝国近衛隊第一師団は船を出す。
神の娘をその船に伴って。
- 06.05.05