その土地は、住まうべき者すべてに幸福をもたらす。
神に守護されし土地、奇蹟の国オーブ。
長い歴史の中で一度として戦火に巻き込まれることがなく、また一度としてその領域を侵されることのなかった稀有の国。
建国は遥か千二百年もの昔に遡る。
古くから伝わる伝承によれば、オーブは天上から降りてきた神の手によって創られたとされている。
単なる浮島に過ぎなかったそれに豊穣と平穏を約束し、その浮島の守り神となったのは、天上神の中でも高位に座する女神――ハウメア。
彼女が何故その小さな浮島を選んだのかは、伝承には記されていない。
一説には負傷した女神を介抱したのがこの島に住む夫婦だったという説もあるが、それは『建国史』に書かれている諸説のうちの一つにしか過ぎず、それを証明する手立ては今のところ存在しない。
――だが、南方にある小さな浮島がオーブという名を得、その後千年以上もの長きに渡り富と繁栄を築いてきたことは周知の事実である。
戦乱のこの時代において領土こそ小規模なれど豊富な資源を誇るオーブは、度重なる戦乱に疲弊した領土しか持たない諸国からしてみれば、まさに格好の獲物であった。
四方を海に囲まれた小さな島国、ましてや長年にわたり平穏に暮らしてきた民は、他者と争うことを好まない穏健で善良な国民がほとんどで、大した武力を持たないこの国を自国の植民地にしようと謀る国も少なくなかった。
南洋の真珠と謳われるほどに美しい国、穏やかな風土と穏やかな国民性。
平和を謳う国にふさわしく非武装のこの国を攻め落とすのは容易いと、数多の国から幾度となく向けられた軍隊は、すべてオーブの領域に入ることなく海へと消えていった。
複雑に流れる潮流、さらには遠浅の海底に見え隠れする岩礁。
そして季節によって変化する気候によって、オーブはまさに天然の要塞そのもので、オーブに住む者には恩恵となる潮の流れも恵み豊かな気候も、侵略者にとっては剣や大砲よりも恐ろしい脅威でしかない。
こうして千年以上もの間、この国はただの一度として侵略を受けることはなかったのである。
オーブを攻めるのは不可能。
諸国に思わせるほどには、その脅威は明らかであった。
――そう、今までは。
◇◆◇ ◇◆◇
「……ふんっ」
眼前に広がる完璧なるシンメトリー――左右対称――の建築物を前に、ザフト帝国近衛隊隊長イザーク・ジュールは面白くなさそうに鼻を鳴らす。
誰もが自由に、誰もが幸福に暮らせる国。
その理念の下に統治されたオーブは、確かに皆が言うとおり『地上の楽園』なのだろう。
神々の住む島、と人々は呼ぶ。
それを証明するように、目の前に広がるのは一度として戦火に巻かれたことはないであろう豊かな土地。
どこまでも続くかのように伸びた大路は一分の隙もないほどに舗装されており、その両端に並ぶ建物は細かな細工の施された見事な木造の建築物。
何もかもが自国と違い、その戸惑いは表情には表れないものの内心の動揺は大きい。
ザフト帝国の建物は石造りが主流だ。大国として名乗りをあげてから数百年、さすがに王都に住む国民にとって戦乱はほど遠いものとなったが、それでも国境周辺では相変わらず小競り合いが続いており、いつ攻めてくるか分からない他国への警戒は怠ることはできない。
そんな戦乱の中、一度火の手が上がればすべて燃え尽きてしまうだろう木造の建造物は、ザフト帝国ではほとんど見られない。
ほとんどが堅牢な石造りで、どの建物も容易に侵入できないように門扉は高く警護の数も少なくない。
外部からの侵入を警戒する必要のない外壁は低く、実用性よりもデザインを重視して建築されたかのように細かな装飾の施されたそれは、平和な時代だからこそ建てられるものだろう。
門扉に施された繊細な螺鈿細工、そしてどの建物にも当然のように見られる見事な彫刻は、この国が誇るのは高度な建築技術だけではないことを証明している。
「さすが『神の国』オーブだな。このご時世に随分と場違いだ」
眼前に広がる奇蹟のように美しい街並みに見惚れていると、背後から揶揄するような声がかかり その言葉にイザークの秀麗な眉がぴくりと動いた。
帝国内でも王家に次ぐ名門ジュール家の嫡男であり、貴族達から『氷の貴公子』の呼称を戴く美青年、イザーク・ジュール。
流れる清水のような銀髪に白磁の肌。
そして見るものを凍らせるほどに冴え冴えと輝くアイスブルーの瞳。
だが彼の内面はその冷ややかな外見とは対照的に、燃え盛る炎のように激しい。
線の細い、一見すると武芸とは無関係な、それこそ学者のような風体ではあるが、彼の剣術は国内でも屈指の腕前で、その性格も相まってか彼に対して揶揄めいた軽口を叩く命知らずはほとんどいない。
だが何事にも例外は存在するものである。
その例外が隣に立つ青年、自他共に厳しいイザークが、唯一自身の背後を任せるほど信頼した相棒、ディアッカ・エルスマン。
輝く金の髪と漆黒の肌の青年、その胸には近衛隊副隊長の階級を示す紋章が燦然と輝いている。
すらりとした長身に纏う軍服は、選ばれた者のみが纏うことの許される漆黒。
イザークと同様ザフトでも有数の名門エルスマン家の嫡男として生まれ、すべての武芸に秀でている彼は、幾度となく参戦しては数々の武勲を挙げていた。
その結果として若年ながら特務隊への昇進が決定していたものの、その地位をあっさりと辞退してイザークの補佐であることを選んだという、一風変わった経歴の持ち主である。
武人としての実力は若手ではおそらく国内隋一、だが常に飄々とした態度でどこか真剣さを感じさせない彼が本気になった姿を見た者はほとんどいないと言われるほど、規律正しい軍において特異な存在であることは間違いない。
「うちとは随分趣が違うもんだな。南洋の真珠と呼ばれるほどの国だから興味はあったが、いやはや流石と言うしかないねこりゃ」
周囲には聞こえないだろうそれはイザークの耳にだけ届くように声を抑えてはあったが、だがその――聞き様によってはオーブへの侮蔑とも取られかねない言葉は、今の自分達の立場を考えれば得策ではなく。
咎めるようにきつい眼差しを向ければ、イザークが何を言わんとしているのかわかったのか、おどけたように軽くウインクをしてみせる。
そんな態度に腹を立てるには、イザークはディアッカと言う人物を知りすぎていた。
この程度ならば自分が本気で怒らないと知っているからこその行動で、だからこそ癪に障りはするものの、結局は冷ややかな視線を向けるしかなくて。
「口を慎めディアッカ、俺達はザフトを代表して来ているんだからな」
「はいはい」
「それと、彼女が現れる前に身だしなみを整えておけ。我が国の風紀が疑われる」
「了ー解」
そう言って肩をすくめる様子は、相変わらず何を考えているかわからない。
だがこうして釘を刺しておけばそれ以上の軽口は叩かない――少なくとも表面的には。
「それにしても」
襟元を正しながら呟く、どこか面白くなさそうな声の調子にわずかに視線を向ければ、紫紺色の瞳に剣呑な光が浮かんでいて。
どうやら今回の任務に対してあまり良い感情を抱いていないことを表していた。
「なんで近衛隊がわざわざ使節に赴くわけ? それも第一師団がさ」
「それ相応の礼儀だろう。何しろ国の代表だ」
「だから、いくら国の代表だからって、もっと相応しい奴らはいくらでもいるだろうが。それこそ特務隊だって警備隊だっているんだぜ。何で俺達近衛隊が来なきゃいけなかったのかって言ってるんだよ」
近衛隊の主な任務は王宮の警護――特にイザークの率いる第一師団は王太子直属の護衛であり、いくら特殊な任務だとは言え守るべき主人や国を離れるような任務が下されることはありえないのが常だ。
ましてやイザークは今でこそ軍に所属しているものの、将来は国の中枢を担う宰相になるべき人物だ。
イザークの補佐を担うディアッカにしてみれば、そのイザークが今回のように危険を伴う任務に赴くことが不満なのだろう。
確かにディアッカの言う通り今回の任務に際して他にも適任はいただろう。
だが。
「俺が志願したからだ。文句あるか」
「な…!?」
非難の色をこめた眼差しを軽く受け止めて、イザークは視線を正面へと移す。
長く続く大路の先にあるのは、オーブの象徴とも呼ぶべきハウメアを祀る神殿。
女神を祀る場所に相応しい、静謐で荘厳なたたずまい。
男子禁制のその神殿は、ひっそりと威厳を湛えてイザークの眼前にある。
噂には聞いていたものの、いざ目にするとその迫力は想像以上で、この国において信仰というものがどれだけ重要視されているかがそれだけで十分に窺える。
軍人としてではなく、またザフトの将来を担う人物としてではなく、イザーク・ジュール個人として神秘の国オーブに興味があったのだ。
だから、周囲の反対を押し切る形で半ば強引に今回の使者を引き受けた。
「そういや、お前昔っからオーブに興味持ってたもんな」
「そういうことだ」
趣味で民俗学を学んでいたイザークは、昔から各国の民族や伝承に関心が深く、様々な文献を調べた結果、『オーブ』という国自体に惹かれていった。
伝承を証明するように他国の脅威から守られていた国。
守護神ハウメアへの深い信仰心。
すべての物資を自給自足で賄えるだけの、豊富な資源と生産力。
それらすべてが、イザークにとっては興味深かった。
そして、彼が今回の使者を引き受けた最大の理由。
「それに、オーブの斎姫をザフトに迎えるのだからな。王太子が出向けない以上俺が来るのはこの上ない適任者だと思うぞ」
「…まあ、そりゃあな」
自惚れではなく、イザークはザフト帝国での自分の地位がどれほどのものかわかっている。
王太子が将来国を担うように、その腹心の部下であるイザークもまた、将来ザフトの中枢に位置し国の命運を担う人物になるのだ。
主に外交を担う役職に就くであろう自分が、ザフトとオーブを結ぶ婚儀の使者に赴くことは当然だと思っている。
そしてそれはおそらく間違いではないだろう。
そう告げれば不服ながらも承諾せざるをえないのだろう、紫色の瞳が剣呑に瞬いたが、結局頷く以外に方法はない。
「それに、あの鉄面皮がなりふり構わず手に入れようとしていた、件の『斎姫』を誰よりも先に見れる機会なんて、そうはないだろう」
「確かに」
渋面を作った親友を宥めるためなのかそれとも本心なのか、イザークがほんの少し口元を緩めて告げれば、ディアッカの表情が一瞬にして明るくなる。
今回イザークが任じられたのは、ザフト帝国国王による同盟の締結と、二国間の友好の証として王女の輿入れに際しての護衛だった。
現国王の2人いる娘の内、ザフト帝国王太子であるアスラン・ザラが花嫁として所望したのは、生まれてから一度も神殿から出たことのない斎姫だった。
一生を神に捧げる巫女媛を還俗させ他国に輿入れさせるということに、オーブ国内から激しい反対があったものの、今回の同盟を破棄することがどのような結果を招くか知っているだけに強引に固辞することもできず、申し入れから一年以上経過してからようやく婚儀を執り行うことが決定したのだ。
生き神として崇められているアスハ王家。
その中でも神に仕える斎姫はある意味国王よりも神聖な存在とされ、生まれた時から神殿に預けられ神に仕える巫女として育てられる斎姫は、外界との接触を一切断たれその生涯を神殿の中で終える。
巫女というよりは神と同格である斎姫の存在は、滅多なことでは国民の口の端に上ることも少なく、結果国外で斎姫の存在を知る者は皆無に近い。
諸外国の事情に詳しいイザークや現宰相達ですら知らなかった斎姫の存在。
ザフト帝国から外に出たことがほとんどない彼がどのようにしてその存在を知り得たのか興味があった。
何事にも執着を見せなかった王太子アスラン・ザラが唯一激しい執着を見せた、その『斎姫』の存在。
御年16歳のオーブの第二王女。
果たして一体どのような少女なのか。
イザークの好奇心の虫が疼くのも無理はないことだった。
- 06.03.05