翌日になってもシンの身体は元に戻らなかった。
1日ならば仕方ないと思えたシンだが、それが3日4日と続けば流石に不安は隠せない。
口数は減り、それに比例するように食欲も落ちる。
それでもユダに負担をかけないようにと気を遣う姿は健気だが、同時に哀れでもあった。
ユダとしても原因を解明したいと思っているのだが、何しろ成年天使が少年天使に戻るなど過去に事例がないため見当もつかない。
そして何よりも落ち込んでいるシンを1人にできないために、シンと同様ユダも自宅に引きこもった生活を続けていた。
本当ならば仲間に相談した方が良いのだとは分かっているが、こういう時に頼りになりそうなルカとゴウは任務で天界を離れている。
特にシンの兄貴分であるゴウは長期の任務であるため、早くても半年は戻ってこられないだろう。
天使は寿命がないために時間の概念には無頓着だが、流石に半年は長い。
戻ってくるまでのんびり待つというわけにはいかないだろう。主にシンの精神的な問題で。
ルカは遠方の視察だということなのでゴウほど時間はかからないだろうが、それでもいつ戻ってくるかは未定だ。
そうなると相談する相手として相応しい人は残念ながらいない。
ガイは当然のことながら相談相手としては頼りないし、キラやマヤも同様。
幼い頃から仲の良いレイならば親身になってくれるのではないかと思ったのだが、こちらは何故かシンが珍しく拒否の態度を見せたのだ。
親しいからこそ今の自分の姿を見せたくないのだろうかと思ったのでユダもそれ以上強く言うことはできなかったが、その時のシンの切羽詰った様子をもう少しユダが気にかけていたら後に起こる事態は避けられたのではないかと思う。
だが、それは結局後の祭りなのである。
◇◆◇ ◇◆◇
「ゼウス様に?」
朝食の時間。
ユダが用意したスープを前に何とか食事を摂ろうと頑張っていたシンは、不意にふられた話に僅かに首を傾げた。
「あぁ。少年天使が成年天使になるにはゼウス様の力が必要だ。それなら成年天使を少年天使にすることもゼウス様なら可能なのではないかと思う。ゼウス様の仕業だと考えているわけではないが、我々天使では手に余るというなら、創造神であるゼウス様に聞くのが一番手っ取り早いと思うのだが」
ユダの言葉はもっともだ。
天使が成長するには神の力が必要だ。
シンを創ったのはゼウスの父であるクロノスだが、少年天使だったシンを成年天使にしたのはゼウスだ。
相談相手としては至極当然である。
むしろ今までゼウスの存在を思い出さなかった方がおかしい。
それだけ精神的余裕がなかったということなのだろう。
実はユダはかなり早い段階でゼウスに確認を取るつもりだったのだが、シンの精神状態があまりにも不安定だったために家を空けることができなかったのだ。
ゼウスの神殿に行けば最低でも半日は時間がかかってしまう。
しかも新たな命令を下されれば引き受けないわけにもいかず、そうなるとシンと一緒にいることはできなくなってしまう。
だからこそシンが思い至っていなかったことを理由に言い出さなかったのだが、流石に落ち込みの激しいシンを前に無視している状況ではないと判断したのだ。
多分に不本意なのだけれど。
「本当ならお前を連れていくのが一番だとは思うのだが」
ユダの言葉に小さく震えたシンの様子を見て、やはり無理かと内心で苦笑する。
シンは今の姿を第三者に見られるのを極端に恐れているようなのだ。
神殿に行けば不特定多数の天使がいる。
ゼウスの側近として常に傍に侍っているパンドラは勿論、シンが苦手意識を持っているシヴァやカサンドラとも会ってしまうかもしれない。
普段なら軽くかわせるような軽口でも、今のシンは受け止めることができないため、ユダもシンを同行させるつもりは最初からなかった。
「すまないが、俺が戻ってくるまで1人で待っていてくれるか?」
「……はい」
不安そうな表情で、だが我儘を通してはいけないと思っているのだろう、小さく頷いたシンの頭を軽く撫で、そのまろい頬に唇で触れる。
幼くなってしまったシンにどこまで触れて良いのか正直悩むところだが、この程度なら良いだろう。
少しでも早くシンに朗報を持って帰ろうと急いで神殿に向かったユダは、謁見の間に現れた上機嫌のゼウスの姿を見て僅かに眉を顰めた。
ゼウスの機嫌が良いのはいつものことで、それを嬉しいと思いこそすれ不快に思うことはなかったユダだが、どうしてか目の前のゼウスの表情はユダにとってあまり嬉しいものではなかったのだ。
普段浮かべる穏やかな笑みとは対照的な、何かを揶揄するような目線。
にやりという形容詞が相応しい笑みは、普段のものとは違う。
だが、目の前にいるのは間違いなく自身が敬愛を捧げた神である。
何故そのような感情を抱くのだろうと不思議に思いながらも膝をつけば、頭上からゼウスの声が降ってきた。
「久しいな、ユダよ。休暇は楽しめておるか」
「はい。天界の穏やかな空気に心安らいでおります」
「そうかそうか。それは何より」
先の任務が終わってまだ数日。
久しぶりと言えるほど長い期間顔を見せていなかったわけではないのだが、ゼウスの言葉に異を唱えることもできない。
そうして肯定の言葉を口にすれば、ゼウスの双眸が更に嬉しそうに細められた。
「其方にはここ最近、難しい任務ばかりさせていたからのう。ささやかながら贈り物をしたのだが、気に入ってもらえたようで何よりだ」
「贈り物…?」
ゼウスから何かを贈られた覚えのないユダが僅かに首をひねる。
ゼウスは鷹揚に頷いた。
「其方は滅多に望みを言わぬから結構苦労したのだぞ。だが、成年天使を子供に戻すなど、この全知全能たる私にとって造作もないこと」
告げられた言葉にユダの目が瞠られる。
だが、そんなユダの変化に気付かず、ゼウスは更に言葉を続けた。
「どうだ。幼いシンは愛らしいであろう」
天使を成長させるのは神の力。
それなら今のシンを元に戻すこともできるだろうとやってきたというのに、まさかシンを幼くさせた張本人が目の前の男だとは流石にユダも想像していなかった。
何故なら、このような馬鹿馬鹿しいことを神であるゼウスが行うわけないと思っていたからだ。
ユダは拳を握りしめる。
ゼウスは全知全能の神であり、全ての神の頂点に君臨する絶対神だ。
彼に捧げる敬愛に一点の曇りもないが、何事にも限度というものがあるわけで。
酒の席での軽口を実行するなどという暴挙は例え相手が誰であれ許されるものではない。
しかも被害者は自分ではなくシンだ。
ここ数日のシンの落胆ぶりを知っているユダにとって、不必要にシンを思い煩わせた相手に対する怒りは大きい。
「…そうか、原因は貴様か」
「ユ………ユダ?」
瞬時にユダを取り巻いた怒気に気付いたゼウスがようやく表情を引き締めた。
ゼウスは良い神ではあるが、暇を持て余すと面倒なことを引き起こすことが時々ある。
一番記憶に新しいのはゴウ・シン・レイ・ガイの精神を入れ替えてしまったことだろうか。
あの時も相当苦労した。
そしてゼウスはそんな彼らを見て笑っていたものだ。
勿論単なる悪ふざけで数日も経てば彼らは元に戻ったが、既に5日が経過しているのに戻る気配のないシンには一体どれほど悪質な術をかけたというのか。
ゆらり、と立ち上がったユダにゼウスは大袈裟に怯えた。
基本的に主君であるゼウスに対してユダは従順だ。
それは確かに臣下の鑑なのだが、だからと言って唯々諾々とゼウスに従っているわけではない。
そのためゼウスがあまりにも目に余る行為を行った時は本当に容赦がない。
前回、ゴウ達4人の人格を入れ替えた時は、それはそれは長い説教を喰らってしまったのだが、残念なことにゼウスは喉元を過ぎれば熱さを忘れるタイプの男だった。
そういえばと過去を思い出し、そして目の前で神殿を崩壊しそうなほどの怒気を身に纏っているユダを見、ゼウスは青ざめた。
絶対神という肩書が通用しなくなる相手。それがユダだった。
「…ゼウスよ」
「わ…私は用事を思い出した。悪いが話はまた次の機会にせよ」
言うが早いかゼウスはそそくさと謁見の間から逃げ出した。
普段は使わない転移の術まで使った、正に光速の逃亡だった。
「…逃げたか」
目の前から瞬時に消え失せたゼウスに忌々しそうに舌打ちをしたユダの背を見送った神官の1人は、「正直、どちらが主かわからなかった」と神官長に震えながら報告した。
- 12.02.23