Sub menu


Continued Story 02


シンはため息をついた。
早朝の大学へ赴き、学長に退学届を出して公邸に戻る。
たったそれだけのことが、まさかこんなに難しいことになるとは想像していなかった。
教授から引き止められるだろうと思ったからこそ、学長に提出してしまえば良いだろうと思い、教授の講義が入っていない曜日をわざわざ選び、しかも何か特別な事情があって彼が大学へ来てしまっても朝に弱い教授と鉢合わせてしまわないように、学長が出勤してくるだろう午前9時を狙って大学へやってきたというのに。
そこまで考えたにも関わらず、物事はシンの思うようには進んでくれなかった。
数千人という大学の一生徒であるシンの存在を学長が知っていると思っていなかったシンは、自身が師事する教授が学長のお気に入りでシンが手伝った論文を一つ残らず学長が目を通しているとも知らなかった。
又、教授が学長にシンのことをどれだけ優秀な生徒であるか熱く語っていることなど微塵も考えていなかったのである。
結果として学長と対面したシンは、手渡そうとした封筒の文字に「退学願」という文字を見た学長により学長室に軽く軟禁、程なくして寝癖もそのままにかけつけてきた教授2人にこれでもかという泣き落としにあってしまったのだ。
元々お人よしの気質があるシンのこと。これには相当参った。
大学に何か不満があるのか、卒業後は大学院に進むと言っていたではないか、学年トップの成績だというのに中途退学なんて勿体無い、学費のことなら奨学制度があるのだから問題ないだろう、君の論文は多くの教授が期待をしているのだからどうかせめて卒業までは思いとどまって欲しいetc...
口が達者ではない上に押しに弱いシンは返答するにも言葉に窮し、そういうわけではなくて一身上の都合だと言っているのだが、何が何でもシンを学校に留めておこうとする教授には端から聞く耳がないものだから、会話は平行線のまま時間だけが無情に過ぎていった。
すぐに済むからと書置き一つで城を出てきたというのに、これでは正午までに戻ることができないと焦るシンの気持ちは、残念ながら2人の大人には通用しない。
最終手段とばかりに大公の下で働くことが決まったと話してようやく解放してもらったのだが、退学届は受理されないまま。
この件は後でじっくり話し合おうと言われ、結局何一つ解決しないどころか頑なに退学を拒む学長と教授を説得するという難題までも抱えてしまったシンは、ようやく解放された学長室の扉を背に大きくため息をついた。

「困りましたね」

まさか就職が決まった――しかも国主である大公の側近である――にも関わらず、退学を許してもらえないとは思っていなかった。
そこまで期待してもらっていることは正直嬉しいとは思うが、今後シンの力は余すところなくユダに捧げるつもりなのだから、彼らの言葉に首を縦に振るわけにもいかない。
仲間に相談すれば、このまま大学に行かなければいいだけの話だと一蹴されそうだが、何事にも筋を通すシンにはそれもできそうにない。
とりあえず一時的とは言え解放してもらったのだから、今のところは帰宅するのが一番だろうと顔を上げると、廊下の向こうに見慣れた2人の姿が見えた。
学長室に用事でもあるのだろうかと思いながら、シンの姿に気づいた2人に笑みを浮かべた。

「あれ、シンじゃないか」
「珍しいな」
「久しぶりです。カムイ、タケル」

2人は大学で知り合ったのだが、人見知りのシンが珍しく同僚以外に打ち解けた人物であり、大学では特に親しくしていた友人だ。

「学長に用事ですか?」
「いや、俺達が用のあるのはお前だよ、シン」
「私…ですか?」

言葉の意味がわからずきょとんと自分よりも少し背の高いカムイを見上げれば、同年代にも関わらず貫禄のある友人は意味ありげに口元を僅かに上げた。

「教授から電話があってな。『シンが大学を辞めるつもりだから何としても止めてくれ』だとさ」
「あの人は…」

言われた内容に、間違いなく扉の向こうにいる教授にため息が出る。
恩師で駄目なら友人を使おうというのか。
何と言われてもシンの心は変わらないというのに。

「それはすみません。ですが…」
「あぁ、話はここでない方がいいだろう。多分聞き耳を立ててるだろうからな」
「そういうことで、カフェテラスにでも付き合えよ」

時計を見ればもうすぐ11時。
執務室である公邸には大学なら20分程だ。
約束した時間にはまだ間に合うだろうと、シンは腕を引かれるままカフェテラスへと足を動かした。





   ◇◆◇   ◇◆◇





ランチタイムには少し早い時間だからか、カフェテラスには想像していたよりも人気が少なかった。
この大学のカフェテラスはメニューの豊富さと値段の安さで人気があるため人影がまばらということは珍しい。
尤もまだ講義の時間だということもあるのだろう。
もう少しすれば我先にと食欲旺盛な生徒が集まってくるため、カムイは奥のテーブルを選んだ。

「さて、理由を説明してくれるよな」

シンの目の前に珈琲を置き、そう訊ねるカムイの瞳は意外に優しい。
教授の言うままにシンを引き止めようとしていないことがわかったシンは、苦笑しながらも説明をした。
暗殺者だったという自分の身分を隠しつつ、ある事件に巻き込まれて怪我をしたこと、その療養目的で大学を休学していたこと、怪我した自分を世話してくれたのがユダとルカだったこと、その後色々あって大公位についたユダの秘書として働くことを決めたこと。
勿論色々の部分は説明することはできなかったが、現大公であるユダが父親であるゼウスと揉めていたことは周知の事実だっために、察しの良い2人には何となく想像がついたのだろう、敢えて問いただしてくるようなことはなかった。

「まったく、お前は運が良いのか悪いのか」

話し終えたシンに開口一番で返されたのはカムイのそんな言葉だった。
2人ともシンがユダを尊敬していることは気づいていた。
シンは奥ゆかしくて滅多に本音を言わないけれど、ユダのことを尊敬しているということは全身からにじみ出てくるくらい溢れていたので、親しく付き合っていれば気づかない方がおかしいだろう。
そんなシンだから、ユダと親しくなれたことに対して喜んであげたいものの、そもそも知り合う結果が銃撃戦に巻き込まれて大怪我をしたことが原因となれば、そのような場所に迂闊に近づいたことを怒りたくなっても当然だろう。
気分はすっかり保護者だ。
眉間に皺を浮かべつつも瞳に厳しい光を浮かべている友人を前に、シンは肩身が狭い。
目の前の友人から醸し出される空気は、兄と慕うゴウの持つそれとよく似ているのだ。
真実を話せない以上、シンが語った内容は一般人が取る行動としては無謀極まりないもので、友人思いのタケルや兄貴肌のカムイが黙っていられることではない。
居心地が悪くて誤魔化すように目の前の珈琲を口に含む。
すっかり冷めてしまった珈琲はブラックで、ブラックが苦手なシンはその苦さに僅かに眉を寄せた。
シンの好みを熟知している友人が間違えたということはないから、おそらくこれはわざとだろう。
心配させた罰だとでも言うささやかな嫌がらせに、シンは現状も忘れて恨めしそうに上目遣いに友人を睨んだ。
その相変わらずな様子に笑いが漏れたのは隣のタケルからだ。

「カムイが怒るのも無理ないけどさ、シンって元からこういう奴だし怒るだけ無駄だって」
「だが今回は無事だったから良かったものの、一歩間違えれば命を落としてもおかしくない事態だったじゃないか。もう少し周囲に警戒を持たないと後悔するのはシンなんだ」
「だからさ、シンだって一応はわかってるって。そこまで馬鹿じゃないんだから。まぁ、果てしなくドジではあるけど」

あっさりとひどいことを言っているが、本人に悪気は欠片もないのが哀しい。
しかもシンにとっては反論できないのが、また痛い。
タケルは座席をずらしてシンに向き合うと、自分の前に置かれていた珈琲とシンの珈琲をするりと取り替えた。
こちらにはミルクが入っている。
最初から交換してくれるつもりだったのだろう。
タケルが好きなのはブラックなのだから。

「カムイはさ、何の連絡もしてくれなかったのが不満なんだよ。休学したって聞いた時に家まで行ったのに、お前いないしさ。何か事件に巻き込まれたんじゃないかって毎日ピリピリしてたんだよ。元気なのは嬉しいしお前の門出を祝ってやりたいとは思うけど、ずっと蚊帳の外だったんだから意地悪の1つもしたくなるって」
「すみません…」

思ったよりも心配をかけてしまっていたことに、シンは謝る以外できなかった。
最初は大学内だけの付き合いだった。
少しずつ打ち解けてプライベートでも一緒に遊んだりはしたけれど、裏の世界に生きてきたシンにとってカムイとタケルは本音を曝け出して付き合えるほどの仲ではなかった。
だが、彼らが本気で自分を心配してくれたということが嬉しいと思ってしまう程には2人に心を許していたのも事実。
友達甲斐のないことをしてしまったのだと思えば申し訳なさしか浮かんでこない。
捨てられた子犬のようにうなだれてしまったシンに、タケルは苦笑しつつ頭を撫でた。
まるきり子供に対する対応だが、タケルもシンも幸いなことにその事実に気づいていない。

「まぁ、俺達からすればお前が大学にいなくなっちゃうのは寂しいけど、大公の秘書なんて立派な仕事だからな。引き止めることはできない。でも、たまには連絡くれると嬉しいな」
「はい、それは勿論」
「頑張れよ」
「はい」

穏やかになったカムイの表情に、シンが嬉しそうに笑った。

「ということで、はい」
「え?」

いきなり目の前に手の平を差し出され、シンは首をひねる。

「退学届だよ。どうせ教授が受け取ってくれなかったんだろう。俺が渡しておいてやるよ」

幼く見える顔で悪戯っぽく笑ったタケルに、シンは成る程とポケットに戻しておいた封筒を手渡した。
自分からは受け取ってくれなくても、彼らから手渡してもらえば受理してくれるかもしれない。
何せカムイもタケルもシンと同様に教授が可愛がっている優秀な生徒なのだから。

「申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
「任せておけって。お前は自分の仕事頑張れよ」

励ますように肩を叩かれて、シンは笑って頷いた。
時刻は11時30分を過ぎている。
正午までに帰るという約束は微妙だが、今からなら急げば間に合うだろう。
菫色の髪の幼馴染は時間に少々厳しい。
挨拶もそこそこに席を立とうとすると、背後から悲鳴が上がった。
徐々に増えてきたカフェテラス。
何かあったのだろうかと視線を巡らせれば、どう見ても学生に見えない黒スーツの男性達の姿。
纏う空気が堅気のそれじゃないことに気づいたシン表情が一瞬で険しくなる。

「動くな」

彼らの右手に握られている銃が大きな音を立てた。


  • 10.02.21