早く終わらせなければいけない。
シンがユダへと刃を向けた時に脳裏を占めていたのはそのことだけだった。
そう思い繰り出す刃は、だがシンの思惑など関係なく、相手にはすべて紙一重でかわされてしまう。
相手が丸腰なのにも関わらずだ。
何度も武器を取るように進めてみても、目の前の相手は断固として首を振るばかり。
愚かなことだと哂ったのは、一体誰に対してか。
渾身の力で斬り付けても相手は全て避けてしまう彼には、確かに武器など必要ないのかもしれない。
しかもその動きには余裕すら感じられる。
元々自分とユダとでは相手にならない。それは最初からわかっていたことだ。
だが命じられたのはシンで、シンが失敗するということは許されない。
きつく唇をかみ締める。
早く――しなければいけないのに。
シンのスタミナも無尽蔵ではない。
むしろ外見通りの持久力しかないことを己で自覚していた。
だからこそ短時間で決着をつけようと思い姿を現したのに、それでもユダはシンを反撃しようとしない。
ルカのように何故だと問うこともなく、ただ穏やかな眼差しでシンを見るだけだ。
その瞳にシンを非難する光は浮かんでいない。
信じているのだろうか。まだ、シンのことを。
だとしたら、それは命取りだ。
「いつまでも逃げてばかりでは、終わりませんよ」
嘲笑を浮かべ刃を振るう。
ユダの髪が一房風に舞う。
それでも顔色を変えない彼に、いっそ忌々しくすら感じてしまう。
蒼い瞳は冷静にシンを見ている。
そこに敵意や殺意は見られない。
だからこそ悔しい。
自分では対等に相手をする価値すらないのだと言われているようで。
既にシンがこの屋敷に侵入してから1時間が経過している。
騒ぎを大きくしたのに警備の兵が誰一人来ないこともシンにとっては誤算だった。
もっと簡単にことが済むと思っていたのに、これでは全てが裏目に出てしまう。
逃げるわけにはいかない。それだけは許されない。
だからこそ決着をつけなければいけないのに、ユダはそれすら許してくれない。
時間がないのに――。
「っ!」
ふと、ユダの瞳が揺れた。
理由はわからないが一瞬だけ生じた油断に、シンは渾身の力を込めて筆架叉を突き出した。
だがその腕は容易く避けられ、逆にその腕を掴まれる。
強い力に思わず筆架叉を取り落とすが拾うことを許されず、シンはきつくユダを睨んだ。
「……もう、止めるんだ。シン」
「な…にを…」
「自分を偽るのは止めるんだ」
言いながらユダの指がシンの頬を滑る。
その指先に光るものを見て、そのとき初めて自分が泣いていることに気づいた。
「あ…」
感情は殺したつもりだった。
そうでなければユダと敵対することなどできるはずがなかったから。
つらすぎて耐えられなかったから。
「シン」
触れるぬくもり。優しい腕の中。
逃げなければいけないと分かっているのに、それでも身体は金縛りのように動くことができない。
あぁ、と絶望のため息が漏れた。
どうしたってシンはユダを殺めることなどできないのだ。
ユダはシンが記憶を封じてまで傍にいたいと願った相手だ。
己の命と、唯一の愛を捧げた相手だ。
ユダの為にこの命を捨てる覚悟をした自分に、そのユダを討てるはずなどない。
そんな自分の感情を押し殺して任務を遂行しようとしたのが、そもそもの間違いだったのか。
ユダには全てお見通しだったということだ。
滑稽で、そんな自分が哀れで涙が止まらない。
シンが結果を出さなければゴウが――青龍の冠を戴く彼が出てきてしまうというのに、自分はそれを阻止することすらできないとは。
力を失った手から筆架叉が滑り落ちて床の上で硬質な音を立てる。
「シン…」
耳に響く声が愛しくて、そして哀しい。
結果は最初から明らかだったのだ。
だからこそユダの手で終わらせて欲しかったのに、ユダはそんなシンの唯一の望みすら叶えてくれない。
何もかもわかっているかのような深い眼差し。
シンの死角も隙も全てわかっていながら、それでもあくまでも手を出そうとしなかった。
敵だと認識してくれたらよかったのに。
裏切り者だと罵って憎んでくれたらよかったのに。
ユダをゼウスの手から救うには、シンがユダに殺されなければならないのに――。
シンが敗れれば、ゼウスは予定を変更せざるを得ない。
玄武を司るシンは表舞台にこそ出ないものの、正真正銘ゼウスの側近中の側近だ。
その知略も武力もゼウスの覚えが高い。
そんなシンが討たれたと知れば、さすがのゼウスもユダの暗殺を続行させることはできないはずだ。
ユダの人望は最早ゼウスよりも高い。
ゼウスの子飼いであるシンが暗殺に失敗してユダに討ち取られたという結果は、国民にとってはユダへの思慕を募らせると同時にゼウスの権威を失墜させる。
いくら国主だとは言え、ここ数年のゼウスの専横に国民の怒りは深い。
そのゼウスが息子を殺してまでも自分の地位を安定させようとしていることが露見すればただではすまないだろう。
そうなれば、ゼウスに残される道はただ1つ。
ユダを再び後継者に認定し、己が自主的に退位することしかなくなるのだ。
国外からはルシファーがゼウスを失脚させようと企てているという噂も入っている。
ルシファーとユダが手を組めば、ゼウスの命運は尽きる。
自主的な退位など許されず、下手をすれば罪人として処刑される可能性もあるのだ。
むしろその可能性の方が高い。
だからこそゼウスは焦っているし、形振り構わずにユダを襲撃しているのだが。
ここでシンが死ねば、すべてが動く。
国がゼウスを廃し、ユダを望むのだ。
だがシンが自ら命を落とすのでは意味がない。
あくまでも『ゼウスが差し向けた刺客をユダが返り討ちにした』という状態でなければゼウスは諦めない。
それなのにユダはどうしてもシンを討ってくれない。
たとえ全ての状況をユダが把握していたにせよ、ユダはシンを手にかけることを選ばないのだろう。
ユダのために死ぬことが、今の自分に残された唯一の手段なのに。
彼は許してくれない。
それが、ひどく哀しい。
「シン、泣かないでくれ」
打ちひしがれるように静かに涙を流すシンに、ユダは優しい拘束を解き頬に流れる涙を唇で拭っていく。
触れる場所から伝わってくる想い。
それを感じれば感じるほど、シンの瞳からは涙が溢れてくる。
唯一の手段を封じられ、シンが彼に与えることができることは何もない。
共にいることなどできるわけがない。
自分は敵だ。
そして、戻る場所もない。
裏切った自分は、彼らの仲間であることすら許されないのだから。
全てを失った。
もう、どうしたらいいかわからなかった。
「そこまでだ」
静まり返った邸内に響く声に、シンの意識は引き戻された。
低く響く声。
ユダと同じく威厳のある声は、シンが今まで一番身近に感じていた人物のものだ。
「誰だ」
咄嗟にシンを己の背後に庇ったユダの厳しい誰何の声が響く。
ゆっくりと歩みよってくる姿。
人を従わせることに慣れたその人物の姿を認め、シンは息を呑む。
間に合わなかった――。
「兄者……」
シンは喘ぐように声を出す。
青龍のゴウ。
四聖獣の長であり、ゼウス最大の懐刀の姿がそこにあった。
- 09.11.12