戻ってきたゴウが見たのは、浮かない表情のレイ、不機嫌さを隠そうともしないキラ、そしてそんなキラを必死で抑えているガイの姿だった。
喧嘩するほど仲がいいとはよく言ったもので、その言葉通り彼らの仲は傍目から見るほど悪くはない。
だが、明らかに暗雲たちこめるこの部屋の状況からあまり良い結果は期待できない。
何よりも部屋にいるであろう人物の姿が2人ほど少ない。
そしてキラが取り乱すのはその2人のこと以外にはありえないので、何が起こったのかは十分過ぎるほど想像がついた。
「何の騒ぎだ」
声に不機嫌さが現れてしまうのは仕方ない。
何しろ長時間に渡る拘束から解放されたのがつい先ほどなのだ。
しかもこれから行わなければならないことは山積している。
それこそこの部屋を後にする前とは比較にならないほど。
だが、勿論彼らはそんなゴウの心情など知りはしない。
アットホームな雰囲気漂う彼らとの共同生活は家族という縁が薄い自分達にとって何よりも安らげるものではあるが、残念ながら今はその雰囲気に溶け込めそうもなかった。
「兄者…、随分と時間がかかったのですね」
「あぁ。少々厄介なことになってな。そして…ここでも厄介なことが起こっていそうだ。シンはどうした。話があるんだが」
彼は彼らが巫山戯ていようとも、余程ひどくなければ微笑んで眺めているようなところはあるが、この状況を前に何も対処をしないということはありえない。
レイに問いかければ、レイは困ったように眉を下げた。
「1時間ほど前に出かけました」
「1人でか?」
「僕も一緒に行くと行ったのですが、どうしても1人で行くと言ってきかないので。マヤがついて行きましたから単独行動を取るとは思えませんが…」
「遅かったか…」
シンの性格を考えれば早急に行動を起こすだろうとは思っていた。
ゼウスの命令は絶対だ。
特にシンは責任感が強い。
最初に任務を受けてから1ヶ月何もできずにいたことを考えれば、すぐに行動に移して当然なのだが、自分が帰るまで待っていてほしかったと思うのは我儘だろうか。
思わず舌打ちしたくなるのを抑え、ゴウはシンと同様踵を返す。
「兄者?」
再び部屋を出て行こうとするゴウに不思議そうにレイが声をかける。
「シン1人では無理だ。俺が出る」
「では僕も…」
「いや、お前達はここで待っていてくれ」
ソファーから立ち上がりかけたレイを片手で制して、ゴウはそのまま部屋を後にした。
アパートの正面に待機させた車に乗り込むと、ゴウは疲れたように嘆息を一つ。
事態の展開が速い。
留まっていた時間が動いた途端、それまでの速さを無視して時間が動いているような気がしてならない。
「公子の屋敷へ」
シン1人ではどうしたとしてもユダには敵わない。
確かにシンは細身の外見からは想像できないほどの身体能力を有しているが、それでもユダの持つそれとは違いすぎる。
元々シンは頭脳労働専門だ。
実力で劣らないようにと鍛錬を続けた結果、一般の兵士とは比べ物にならないだけの実力を持つことはできたが、生まれ持った筋力の差はどうにもしようがない。
ルカとならば良くて対等だろうが、ユダでは無理だ。
文武に秀でた元公子は、護身術と呼ぶには過ぎるほどの実力の持ち主なのだ。
かつて一度だけ手合わせをしたことがある。
その頃はお互いまだ少年の域を脱していなかったが、それでも将来ゼウスの護衛の任を預かる者としての頭角を表していたゴウを相手に互角の戦いを見せたのだ。
鍛錬を欠かさないユダのことだ。
恐らくその実力は更に上がっているだろう。ゴウで相手ができるかどうか。
だからシンが正面から戦うのは、それこそ自殺行為としか言えない。
ユダに憧れていたシン。
憧憬以上の感情があったことをゴウは知っている。
(間に合ってくれ)
ゴウは祈るような思いで窓の外を眺めた。
◇◆◇ ◇◆◇
告げられた言葉がもたらした衝撃をどう表現すればいいのか。
四聖獣という名は既に耳に馴染んだ言葉だ。
ゼウスが差し向けた暗殺集団。その指揮官。
どれほど調べても人物像らしきものが何一つ出てこないことから相当の情報操作能力を有しているのだとはわかっていたが、その人物の1人が目の前の青年だと言われても納得ができるはずもない。
確かに先ほど見た一人も女性のように線の細い、まだ少年の域を出ていないような青年だった。
相当の手練だということはその鮮やかな脱出劇を見ても推測されるが、ユダが知るシンとはあまりにも違いすぎて、こうして目の前で対峙しているにも関わらず信じることができなかった。
「シンが…」
絞るような声はルカからだ。
ユダはまだ言葉を発するほど思考が回復していない。
目の前の青年が小さく首肯する。
「そうです。ルカ殿。その節はお世話になりました」
「何故お前がユダを裏切る?!」
声が険しくなっているのは、信じていたからだ。
シンならばユダの癒しになると。
自分とは違う唯一の存在になると信じて疑っていなかったからだ。
「何故と聞かれましても」
不思議そうに首を傾げる姿。
今までに何度となく見てきたそれは、冷ややかな表情をしているせいだろうか、自分達が知る彼とはあまりにも違いすぎる。
これが彼の本性なのか――。
「私はゼウス様の駒。最初から裏切るも何もありませんよ」
「だがっ」
「申し訳ないのですが、無駄話をしている時間はないのです」
持っていた武器を片手に持ち替え、シンの右手が一閃された。
かすかに見えた輝き。風を切る何か。
「っ?!」
細い、何か。
一瞬の間に15センチほどの長さの針が、ルカの二の腕に刺さっていた。
殺傷能力は高くないそれを忌々しそうに抜こうとしたルカの身体がぐらりと傾いだ。
「ルカ?!」
倒れることは堪えたものの、がくりと膝をついたルカにユダが慌てて声をかける。
一瞬で額に浮かんだ汗。まさか毒なのかと思えば、静かな声が響いた。
「少し大人しくしていただいただけです。流石にお2人を相手にしてはこちらもただではすみませんから」
その言葉で先ほどの攻撃はルカの動きを制するためのものなのだということがわかった。
確かにルカは動けない。
毒ではないと思うが身体が痺れて立っていることすら困難だ。
おそらくは痺れ薬。
シンにはルカを殺めるつもりはないのだろう。
確かに廃嫡されたのはユダだけで、形式上はルカは未だに公子のままだ。
尤もユダと行動を共にした時から公子の身分などすっかり忘れ去っていたのだが。
身の安全を保障されたことを喜べる事態ではない。
何しろ危険なのはユダなのだ。
ルカが唯一の主と認め、その盾となっても守ろうと思っている人物が、今、目の前で危険に晒されているのだとわかって平気でいられるはずもない。
だが痺れはひどく、立っていることすら困難だ。
無理に動こうとすれば呼吸が乱れる。
どうやら随分と強い薬を使ってくれたらしい。
命に別状がないギリギリを選んだのだろうか。
四聖獣の玄武と言えば、ゼウスの率いる暗殺集団の中でも参謀的な役割を担っていると聞いたことがある。
細身の外見は、確かに肉体労働よりも頭脳労働の方が得意そうだ。
況してやシンの性格を知ってしまえば、その言葉も更に信憑性を帯びてくる。
部屋からあまり出ないシン。
静かな室内での読書を好むシンは、確かに知識量は相当なもので。
他国の経済状況から古典まで、様々なジャンルについての知識を持っていた。
この細身で暗殺という生業をしていたのかと不思議に思ったものだが、成る程、このルカの攻撃と言い瞬発力と命中率は相当なものだ。
銃を持って戦えばユダでさえ仕留めるのは容易いだろう。
だからこそ、シンが持つ武器が気になった。
筆架叉は殺傷能力こそ高いものの、接近戦に使用する武器だ。
接近戦ならば武術を極めたユダに軍配が上がる確率が高いのに、シンがわざわざその得物を選んだということは、それがシンの得意な得物だからだろうか。
それとも…。
「さて、お待たせしましたユダ殿」
ユダへと向けられた表情は相変わらず何を考えているのかわからない。
端正な顔立ちをしているからだろうか、冷ややかな印象が強いように感じる。
ルカはこんなシンを初めてみる。
ルカの知るシンは時折困ったように眉を下げることはあるものの、常に微笑んでいる青年だったから。
だが…。
「ゼウス様の命により、そのお命頂きます」
その瞳が今にも泣きそうだと思うのは気のせいだろうか。
- 09.10.28