その青年はユダもよく知っていた。
ゼウスと袂を分かつ直前に秘書兼護衛として雇ったのだと、他でもないゼウスから直接聞いたのだ。
自分と同年代の青年は寡黙ながら身のこなしに一分の隙もなく、確かに護衛としては優秀だろうと漠然と思ったのは記憶に新しい。
突然現れてゼウスの懐刀と呼ばれた青年。
それがゴウという男だ。
意外と言えば意外、だが彼が四聖獣の長だと言われればこれほどしっくりくる人物はいない。
「お前が…」
蒼白なシンの顔を見れば間違いない。
対峙している間中、シンが何かに焦っていたのはわかっていた。
そして自ら命を捨てようとしていることも。
他でもないユダに、殺されることを望んでいることも。
無表情を通していたからこそわかったシンの心境。
長くない、けれど深い付き合いの中で知ったシンという人物。
その心根を知ってしまえばシンの瞳が泣きそうに歪んでいることなど明白で、正体を晒して細い体躯でユダに正面から挑んできた理由など、どういう目的かなど考えることは簡単だった。
自暴自棄と言えるほどに無謀な行動の意味はどこにあるのだろうか、それが気がかりだったのだが、成る程この青年が出てくるのを抑えるためだったのかと、シンの表情から察することができた。
「兄者…」
震える声。
ユダを庇うように前に出たシンの表情はどこか縋るようで、そんなシンに対してゴウの表情は一遍の変化もなかった。
「この件は私に一任していただいたはずです。何故…」
「何故、だと?」
低い声。それは他者を従える人物が持つもので、目の前の青年が紛れもなくシンを従える人物なのだと証明していた。
色違いの瞳がシンを射抜く。
「それはお前自身が一番良く知っているはずだ」
「ですがっ…」
「シン」
咎めるというよりは諭すような口調。だが圧倒的な存在感にシンは小さく身体を震わせた。
ゴウは普段ならばとても頼りになる兄のような人だ。
だが仕事となれば話は違う。
シンはあくまでも部下であり、ゴウの言葉はゼウスの言葉と同然。
つまりは絶対遵守だ。
否は許されない。
普段なら反論などしないのだが、今はどうしても譲れないものがある。
シンは更に一歩踏み出した。
ユダがゴウに負けるとは思っていない。
だがシンよりも遥かに勝る腕前のゴウを相手にしては、さすがのユダも苦戦することは必至。
良くて五分。どう考えても無傷で済む相手ではない。
シンには最早ユダを殺すことはできない。
できることはただ1つなのだ。
「お願いです、兄者。どうかこの件は私に…」
「くどいぞ、シン」
その腕には細身の剣が握られていた。
青龍剣。
繊細な細工は芸術品のようで、だがその刃に斬れぬものはないと言われる名剣だ。
四聖獣に任命された時にゼウスから受け取ったそれをゴウが実際に使うことは今までなかった。
「そこを退くんだ」
「…できません」
ピクリ、と眉が動いた。
シンの言葉は裏切りの証拠だ。
ゼウスに仕える者として決して許されることではない。
それでも、シンは退かない――退くわけにはいかないのだ。
「もう一度だけ言う。その男から離れるんだ」
シンは頭を振る。
敵う相手ではないとわかっている。
だけど…。
足元に転がる筆架叉を取り、逆手に構える。
決して得意な武器ではない。だが、それでも人並み以上に使える自信はある。
目の前のゴウには敵わないと分かっているけれど、それでも数分程度の時間稼ぎなら十分だ。
「ユダ、逃げてください」
「シン…」
「お願いします。それほど時間が稼げそうにないのです。ルカも連れて早く裏口へ」
「俺に逆らうのか、シン」
「そう言われても仕方ありません。貴方がユダを討つというのなら私が相手になります、兄者――いえ、青龍のゴウ」
ゴウとは物心ついた時から一緒に育ち、時には厳しく時には優しく支えてくれた兄のような人物だ。
孤児であった自分にとっては四聖獣の仲間こそが本当の家族だった。
暗殺という生業を選んでいながらも彼らの傍だけは暖かく、そして無条件で愛し愛された大切な仲間で、訓練として刃を交えたことはあるけれど、本気の戦いなどしたことはない。
兄のようなゴウ、弟のようなレイやガイ。
ずっと一緒に過ごしていくのだと信じて疑っていなかった。
けれど、どちらかを選べと言われればシンに迷いはない。
「ユダ…お願いですから」
背後の気配は動く様子を見せない。
振り向くことはできないから言葉だけで懇願する。
もうすぐルカの身体も回復するはずだ。
彼らが屋敷を抜け出るまでの時間稼ぎぐらいならシンにも出来る。
だから早く逃げて欲しいのに、やはり背後の人物は動く気配がない。
ゴウの眼差しはシンの背後に注がれている。
まるで自分など相手にならないというような態度。
それなのに隙が見つからない。
時間にしてどれくらいか。
おそらく数分も経過していないだろう。
シンの中で永遠にも感じた頃に、ようやく背後でユダが動く気配がした。
安心したようにシンが息をついた途端、背後から抱きすくめられた。
逞しい腕と温かい体温。
宝物のように抱きしめる腕が誰のものか、シンがわからないはずはない。
「シン」
「ユ、ダ…」
何故と問えばいいのか、どうしてと問えばいいのかシンは言葉にならない。
シンを拘束する力は決して強くない。
それでも振り払うことはできないし、振り向くこともできない。
「ありがとう、シン。だがお前を犠牲にしてまで生き延びようとは思わない」
「っ駄目です!」
ユダはこの国に必要な人物なのだ。
国民が彼の存在を切望している。
自分の命とは比べ物にならない。
そう言えばユダは笑う。
「お前も大切な民だ。民を犠牲にして生き永らえて、俺がどんな大義を果たせるというのだ」
「違います。私は…」
「同じだよ、シン。お前はこの国の民であり、俺の大切な恋人だ。俺を、愛する人を置いて逃げるような薄情者にさせないでくれ」
真摯な言葉はユダの偽りない本音だとわかる。
こんな時でも変わらない高潔な魂。
本当に自分に出来ることはもう何もないのだ。
拘束が外れても動くことができないシンの身体を、別の手が引き寄せた。
「ルカ…」
「あいつは一度言い出したら聞かないんだ。好きにさせよう」
「ですが、ゴウは」
「どちらにしろ、決着をつけなければならないことなんだ」
薬の効き目が切れたとは言え、やはり動くのはつらいのだろう。
まだ顔色の冴えないルカが、それでもシンが逃げ出さないように動きを封じてそう告げる。
既に修復不可能なほどに捩れた親子の対立は一刻も早く終わらせなければならなかった。
ユダもルカも覚悟は出来ていたのだ。
ただそれが少しだけ早まっただけのこと。
己の手を汚さずに邪魔者を排除しようというゼウスは、最早国を治める器などではない。
「覚悟はできたようだな」
「あぁ。だが悪いがこの命くれてやるわけにはいかない。俺にはまだやらなければならないことがあるからな」
「ゼウス殿を失脚させこの国に安寧をなど、本当にできると思っているのか」
ゼウスの悪政による腐敗は、既に国の中枢を麻痺させている。
政治はまともに機能せず治安は悪化、一部の富裕層を除けばその日の食事すら満足に取れない者が多いほど、この国はおかしくなっているのだ。
それを正すことが出来るのかとゴウは訊ねた。
ゴウの問いに、ユダは笑う。
「出来る、ではない。やらなくてはならないんだ」
当然のことだろうと告げるユダにルカが満足そうに頷く。
ゴウはその様子をじっと見詰め、やがて何かを決めたように瞳を伏せると剣を鞘に戻した。
「その言葉、信じよう」
そしてそのままユダの前に膝をつく。
それはまるで臣下の礼そのもので、シンは信じられないというように目を見開いた。
「本日、午前0時を持ってゼウス殿の大公としての地位は失われました。つきましては廃嫡された元公子である貴殿を新大公として玉座に迎えにきた次第にございます」
「…ゼウスは」
「腹心であるパンドラと共に国外へ逃亡。行方はわかっておりません」
告げられた言葉にユダは目を眇める。
ゼウスの突然の失脚、そして逃走。
考えられることはいくつかあるが、最も有力なのは――。
「ルシファー、か」
「御意」
ゼウスの謀略により国を追われた男が戻ってきたと聞いたのは昨日。
ルシファーはかつてゼウスの片腕として辣腕を揮っていた男だ。
ゼウスの弱みなどいくらでも握っている。
今まで動かなかった彼が急に動いたことに疑問を感じていたのだが、国外にいながらもこの国の内情を細かく知っていたのなら、今この時期に行動を起こしたのも頷ける。
彼の情報網がどこにあったのかは、目の前の男が知っているだろう。
「お前は、ルシファーの手の者か」
「四聖獣は本来ルシファー殿の手駒。ゼウス殿に従っていたのはルシファー殿の命あってのこと。今後はユダ殿と手を組み一日も早い国の復興をと命を受けております」
「え?!」
突然響いた声が誰のものかなど、今更問う必要はないだろう。
これ以上ないほどに目を見開いているシンの姿を認めてゴウが軽く笑う。
その姿は先程までの冷ややかなものではなく、シンが知る優しい兄の顔だ。
「お前達は幼かったから覚えていないと思ったが、やはりな」
「では…」
「あぁ。ゼウス殿の命令は無効だ」
脱力したように座り込むシンの姿に、誰ともなく表情が緩んでいくのを三人は感じた。
優秀なのにどこか抜けてて、自覚がないけどかなりドジで。
シンを知る人物が口を揃えて言う台詞は、確かに間違いではなかった。
ユダは笑みを深める。
張り詰めた糸のようだったシンが、ようやく元の穏やかな陽だまりのようなシンに戻ったのだから嬉しくないはずがない。
どのようなシンも愛しいとは思うけれど、出来ればあのような姿は二度と見たくないものだ。
そしてそれを実現させるかどうかはユダの今後の働き次第だ。
「そういうことだ、シン」
「え…あの…」
「この国を復興させるために、その力を貸してもらいたい」
「ですが私は…」
「四聖獣の任務はユダ殿の手足となって国を立ち直らせることだぞ」
「兄者…」
「任務などなくてもユダが手放さないだろうがな」
「ルカまで…」
何だか急な展開にシンだけがついていけない。
三人の顔を困ったように見つめながら戸惑うばかりだ。
まるで小動物のようなそれに見下ろす三人の顔にも笑みが浮かぶ。
「シン」
「は、はい」
「今後は俺の為に生きてくれないだろうか」
命を捧げるのではなく、自分を犠牲にユダを助けるのではなく。
唯一の相手として。
「これから先もずっと俺の隣にいてくれ」
甘やかな笑みと共にそう告げられて、断る理由などどこにあるだろう。
失われたと思っていた未来を目の前に提示されて、どうして否と言えるだろうか。
夢のような現実にシンはようやく笑顔を浮かべた。
その後、大公として即位したユダは特権階級の撤廃と法の改正を行った。
腐敗しきった政治の改善と停滞した国際関係の修復など、国の復興に尽力し様々な活躍を見せたユダは後に『神に愛された王』と呼ばれた。
そして彼の弟を筆頭に四聖獣と呼ばれる四人の側近の存在も、彼の御世を補佐した能吏として後世まで高く語り継がれたと言う。
- 09.11.23