『約束してください』
目の前に広がるのは綺麗な青。そして黄金。
まるで女の子のように綺麗な笑顔を少し困らせて、シンは自分にそう言った。
『その力は、貴方の身体に負担が大きい。滅多なことでは使わないように。いいですね』
自分と兄が生まれた時から人とは違う能力を持っていることは知っていた。
それは食事をするのと同じ程に自分の中では自然なことで、確かに力を使った後はちょっと疲れるけれど、でもそれを話したことがあるのは兄であるキラにだけだ。
どうして他人であるシンがそれを知っているのだろうと首を傾げれば、シンは少しだけ笑った。
『力を使った後、マヤは必ず胸を押さえますよ。多分、無意識のうちに苦しいからやってしまうのでしょうね。胸が苦しくなるのは身体に負担がかかっているからなのです。恐らく多用すれば呼吸が止まってしまうほどの。ですから、どうしても使わなければいけない時以外はやめましょうね』
シンの言葉は難しくて当時はよく分からかったけれど、成長するにつれて己の能力が心臓に負担をかけるものだということを知った。
ほとんどの同胞はマヤが持つこの能力を疎ましく思い使うなと命じたけれど、シンはマヤの身体の負担を考えて使うなと頼んだのだ。
それがわかってからシンの言葉は無条件で信じるようになった。
シンの言葉は常に真実で、マヤにとってはキラと同様に無条件で寄りかかれる人物だったから。
だからマヤはどうしても使わなければいけない時以外、力を使わないようにしていたのだ。
シンが心配するから。
(でも、ごめん。シン兄さん)
今、この時、シンの言葉に従うことはできなかった。
マヤが願えば好きな場所に移動できる、この能力。
シンよりも早くユダに会うには、使わざるを得ない。
アパートからユダの屋敷は近いようで遠い。
身体の負担も大きいだろう。
それでも躊躇はなかった。
「っ!!」
心臓に激しい痛みを感じて一旦止まる。
目の前に広がるのは海岸。
美しい景色のそれ。この国の腐敗を覆い隠してしまうように、幻想的で美しい。
喘ぐように呼吸を紡ぐ。
こんな長距離を移動したことなんてない。
心臓が悲鳴を上げているが立ち止まる時間はない。
苦しさから生理的な涙が頬を伝うが、それを拭っている時間もなかった。
一刻も早く。
それしか考えられなかった。
◇◆◇ ◇◆◇
シンの行方は杳として知れなかった。
目撃者もいない。
突然の襲撃に混乱していたというのもあるだろうが、それでもユダの部下は精鋭揃いだ。
屋敷を出てからの目撃談一つないのは不可解だと思うものの、ゼウス子飼いの暗殺者はそれだけ周到に逃走経路を作っておいたのだろう。
敵ながらあっぱれだと言うべきだろうが、攫われた相手がシンとあってはそんな余裕もない。
何も知らないただの青年。
ユダの側に置いておけば安全だと思ったのに、こんなに簡単に攫われてしまったことが悔やまれてならない。
有能だと言われていた。それなのにたった1人の青年の痕跡すら追えないとは情けない限りだ。
冷静でなければいけないと思いつつ、それでも身を苛む焦燥感は消すことができない。
ともすれば目的地がわからないままに屋敷を飛び出してしまいそうな衝動に駆られるが、それを押し留めているのは最短の時間でシンを救出できる術を模索しているからに他ならない。
場所が分かれば今すぐにでも駆けていくものを。
やるせなさにため息を一つ。
ふと、背後で気配を感じた。
ルカだろうかと思い扉へと振り返ると、開いた扉から飛び込んできたのは見慣れた片腕ではなかった。
「お前は…マヤ…?」
シンと一緒に公園にいた少年。
まだ幼さの抜けない無邪気な子供が、今にも倒れそうに扉にすがり付いていた。
「ユ、ダ…さん…」
顔面は蒼白、息も絶え絶えの姿にユダが慌てて近寄る。
何故彼がここにいるのかという疑問は当然抱いたが、放っておくことなどできない。
眉を顰め苦しそうに喘ぐ姿は演技とも思えず、思わず抱き上げれば全身が驚くほどに冷えていた。
尋常ではない様子に脈を取れば明らかな不整脈だ。
外傷はない。だがこれは明らかに命に関わる容態だ。
音に気づいてやってきた家人にすぐ医師を呼ぶように告げた。
シンの怪我のために医師を常駐させていたのが幸いした。
「すぐに医師が来る。それまで耐えてくれ」
「僕、は…だいじょう、ぶ…。ユダさんに、お願…いが…」
「それは後回しだ。まず安静にしなくては」
小さな頭がユダの言葉を制するようにふるふると振られる。
途切れ途切れの言葉は小さく聞き取りづらい。
それでも必死で何かを言おうとしている姿に、自分の身体よりも優先させることがあるのだろうと判断したユダは、マヤの身体をソファーに横たえた。
脈を測れば先ほどよりも少し安定しただろうか。
それでも油断してはいけなそうだ。
「シンに、いさん…が…止、めないと…」
「シンが?! シンの行方を知ってるのか?!」
マヤが頷いた。
頬を伝って流れる涙は苦しさのせいだけではなさそうだ。
「シンは、何処に?」
「パン、ド…ラ…」
「パンドラ…」
その名は聞いたことがある。
ゼウスが贅を尽くして建てたというアパートメント。
古風な建築様式はオリンポスの中でも一際目立つアパートだが、そこに入居できるのはゼウスが庇護する芸術家ばかりだと聞いていたが。
シンがそこにいるなら、あの青年はそこに出入りすることを許された人物だということだ。
つまりは、四聖獣の本拠地がそこだということか。
ゼウスが芸術を好むことは昔からだったし、若手の芸術家を庇護することも有名だ。
まさかそこにいるとは想像していなかった。
「お願、い…だ、よ…ユダさ…ん…。シン…兄さ…んを、救…て…」
「約束しよう。だからお前は休むんだ。シンが心配する」
「ふふ…。シン、兄さんの約束…守らなか…た…って、怒られ…ちゃう…か、な…」
呼吸が落ち着かない。
危険だ、と思う。
どうやったらこんなにひどい状態でここまで来られたのか。
程なくして到着した医師は、ユダの手からマヤを奪い取った。
やはり深刻な状態だったようだ。
手早く酸素マスクを付けて治療を開始する医師にマヤを任せ、ユダは部屋を出る。
マヤが必死で持ってきてくれた情報。
裏を取る時間はない。
「ルカ」
姿を現した義弟を呼べば、大体の事情を察したのだろう小さく頷かれた。
「マヤを頼む。大切な恩人だ」
「病院を手配してある」
シンの居場所がわかった。
最早ユダを止めることは不可能だろう。
歩き出したその隣、半歩後ろに付き従う。
ユダはルカが非常時に自分と一緒に行動することを好まない。
それは己の身に万が一の事態があった場合にルカに後を託そうという思いからなのだろうが、ルカにとってそれは到底聞き入れられるものではなかった。
ゼウスと戦うと決めてから、ユダとルカは一蓮托生だ。
況してユダに何か起きたときに自分が側にいないことなどあってはならないのだ。
何度となくユダに諭され、同じく何度となく反論した。
何も言わないところを見ると諦めてくれたのか。無駄だと悟ったのか。
怒りのオーラを纏いながら歩く後姿を眺め、ルカは笑う。
ここまで怒らせた四聖獣の愚かさを思って。
車の手配をと言いかけて、突然響いた轟音に足を止めた。
爆風に飛ばされる家人の姿を認め、一気に緊張を走らせる。
立ち込める煙の中、そこに人の姿を認めてルカは懐から銃を取り出した。
消えていく煙の中、ほっそりとしたシルエットが露わになる。
後ろに纏められた青い髪。見慣れない黒衣に身を包んだ姿は…。
「シン!!」
信じられないというように目を見開いたのは一瞬、すぐに駆け寄ろうと一歩踏み出したユダをルカが止めた。
ハープがとてもよく似合っていた手。
その両手に握られた細身の筆架叉。
シンに似合わないそれに、2人の表情に緊張が走る。
「シン…」
感情のないシンの表情に戸惑いを隠せない。
「改めてご挨拶いたしましょう。廃嫡されしゼウス様のご子息、ユダ殿。そして、ルカ殿」
かすかに目を細め、シンは口の端を上げる。
「私の名はシン」
持っていた筆架叉を逆手に持ち、冷ややかな視線を2人に向ける。
「ゼウス様子飼いの暗殺者。四聖獣が1人、玄武のシンと申します」
- 09.10.24