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Lost Heaven 18


マヤにとって『世界』は優しい場所ではなかった。
幼い頃から孤児院で育ち、父の顔も母の顔も知らない。
差別、暴力、侮蔑。
それらを常に突きつけられて生きてきたのだ。
世界は平等ではない。
孤児院では誰もが平等に扱われていたが、一歩外の世界に出てしまえばそこはひどく冷たい世界だった。
富める者が貧しい者を虐げる、権力を持つ者が弱い者を苛む、そんな世界。
孤児院では誰もが平等に幸せになれるよう教えを説いていたため、そのギャップは幼いマヤの心に暗い影響を及ぼした。
その結果、マヤが信じるのは小さな世界だけとなった。
兄と数人の友人と、国主であるゼウス。ただ、それだけ。
ゼウスの敵となる者にはマヤは容赦はしなかった。
親に捨てられる原因だろうと推測される特殊能力も、この国に巣食う悪しき輩を排除するのに役立つと分かれば躊躇なく使った。
多くの命を奪うことすら、マヤには問題ではなかった。
それがゼウスのため、そして大切な仲間の力になれるのなら。
マヤにとって大切なのは、世界ではなく身近にいる仲間なのだから。
彼らが笑ってくれている。
それだけでいいのだ。

だからこそ、今の状況はマヤにとっては理解できなかった。――否、したくなかった。
ゼウスが嫡子であるユダを始末するよう命じたのは知っていた。
それに選ばれたのがシンであることも聞いていた。
シンはマヤにとって兄であるキラとはまた違った安心感を得られる人物だ。
もう1人の兄のように慕っていたと言っても過言ではない。
そんなシンに課せられた任務だから、マヤは当然のように力になろうと思っていたのだ。
シンは優しすぎるから。
マヤならば外見のお陰で怪しまれずに近づけるし、己の持つ特殊能力を使えばユダの懐深く入ることも可能だ。
そんなことを思いながらシンに接触を試みたあの日、マヤが目にしたのはいつもの触れたら消えてしまいそうな儚さを見せるシンではなく、花が綻ぶように笑う姿だった。
特に親しい人にしか見せないそれをユダに向けていることが何を意味するか、わからないマヤではない。
眼差しに浮かぶ光に、頬を染める表情に、シンがどのような感情をユダに抱いているか気づかないわけがないのだ。
それなのにシンはその手でユダを殺すというのだろうか。
できるはずなどないのに。
マヤはシンの性格をよく知っている。
任務の時は冷酷なふりをしているが、その本性は誰よりも優しい。
シンはマヤの方が優しいと言うが、マヤは自分が大切だと思う人物以外は切り捨てる非情さを持っている。
むしろ自分達を脅かす存在であれば容赦はしないため、優しいという表現は当てはまらない。
シンとマヤの違いはそういうところだ。
おそらくこの任務がマヤに来ていたら、マヤは躊躇なくユダを殺害するための手を考えただろう。
マヤにとってユダは数多くいた標的の1人に過ぎないのだから。
ユダはかなりの実力者だと聞く。
それ故に四聖獣が選ばれたのだろう。
四聖獣の長であるゴウはゼウスの片腕と呼べる存在だ。
表だって動くことはほとんどない。
だからシンが選ばれたということは、四聖獣の総力を挙げてユダを葬るように言われたことと同じこと。
それほどの強敵であるとゼウス、もしくはゴウが判断したのだから、シン1人で行くのは無謀とも言えた。
シンは確かに実力はあるが、華奢な外見に相応しく筋力はあまりない。
確かに実力はあるけれど、マヤが見る限りユダと対峙しては圧倒的にシンが不利だ。
実力の面でも、精神的な面でも。
戻ってしまった儚い笑顔。それは諦めにも見えて。
何を諦めたのかと考えれば、それは嫌な予感に行き着いてしまってマヤは息を呑む。

「駄目だよ…」
「マヤ?」

儚い笑顔。いつも何かを憂えた眼差しで見つめていたシン。
その瞳の先にいるのが、届かなかったあの人物なのだとしたら。

「シン兄さん…死ぬ気だ…」

よくて相打ちか、いや、シンのことだからそれすら望んでいないだろう。
ゼウスの命令は絶対。
逃れられない運命なら、己の手を染めるよりシンが選ぶものは…。

「止めなくちゃ…」

正直な話、マヤはユダが生きようが死のうがどうでもいい。
あの優しい笑顔は安心できるが、キラやシンとは比較にならない。
だけど、ユダが死ねばシンが悲しむ。
そしてシンが死ぬのはマヤが嫌なのだ。
マヤはシンと違って戦闘能力は高くない。
決して低くはないが、さすがに四聖獣と肩を並べるほどの実力ではない。
任務の成功率は高いけれど、それはマヤの特性を活かしているだけだし、それほどの大物を相手にしたことがないとも言える。
だけど、マヤとて四聖獣に次ぐ暗殺者だ。
シンを先回りしてユダの元へ行くことは難しくない。

「マヤ…」

弟の思考がわかったのだろうか、キラの眉がわずかに顰められる。
マヤは覚悟を決めてキラを見る。
今まで我儘は何度となく言って困らせていたけれど、多分今回の我儘は今までのそれの比ではない。

「ごめんね、キラ兄さん」

謝るのは、兄に心配をかけてしまうということ。
己が命令違反をするということに対して謝罪するつもりはない。

(だって、多分これが正しいんだ)

理想郷を築くのだと言っていたゼウス。
そのために邪魔をする勢力を潰せば、誰もが幸せに暮らせる世界になるのだと、そう言われたから従ってきた。
大切な人たちがいつまでも笑っていられるような国になるならと、ゼウスの言葉を信じていたから。

でも、それは嘘だった。

大切な人たちからは笑顔が消え、そしてシンは己の命すら捨てようとしている。
ゼウスの理想は何なんだろう。
マヤにはわからない。
ただ、これは違うと感じた。それだけだ。

キラとマヤには兄弟にしかない特殊能力がある。
キラは他人の記憶を操る力。
そしてマヤには空間を移動する力。
マヤが望めば一瞬で距離を移動できるのだ。
尤も身体にかかる負担が大きいために、乱用することは今までになかったが。
この力があればシンよりも先にユダに会うことができる。

「僕、行ってくる」
「マヤ!?」

止める時間はなかった。
マヤの言葉が終わらないうちにその身体は空気に溶けて、消えた。


  • 09.10.21