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Lost Heaven 16


初めて彼を見た時、自分の世界が変わった。

大公の背後に従う姿は自分よりも年上だとは言えまだあどけない少年で。
それでも佇む姿は気品に溢れ、眼差しは強く意志を宿していた。
遠くから窺うだけでも十分すぎる存在感に圧倒されながらも目を離すことができない。
神に愛された人物とは彼のようなことを言うのだろう、と漠然と思った。

『将来、君達はあの方たちのために力を尽くすのだよ』

父のように慕っていた人物からそう言われ、いつか必ず役に立ってみせると決意したのはまだ10を数える年の事。
体力で勝ると言えなかったので知識を身につけた。
非力な己でも彼の役に立つためだと思えば、どれほどつらい訓練でも苦にならなかった。

すべては彼のために。

その希望が破られたのは、それから数年のことだった。



廃嫡、という事実。
次いで告げられた暗殺という任務。
今までに幾度となく手を汚してきた。
だがそれはあくまでも国のためだからこその決断で、彼の公子の存在がなくなってしまえばこの国の行く末はない。
明らかな暴挙だと思うのに、それを告げることのできない己が不甲斐なかった。
自分だけではない。仲間の誰もが納得などできていない。
それほどの愚行。

『ゼウス様は変わってしまわれた』

呟いた声。誰かの耳に入ったら己の身さえ危ういほどの発言だが、そう呟かずにはいられなかった。
自分には親はいない。
親代わりとして慈しんでくれた人物は、昨年大公に叛旗を翻して国を追われた。
血の繋がらない関係でも別れは身を切るほどに切なかった。
大公が2人の息子を慈しんでいたことは、傍から見ていても十分に窺えた。
それなのに今大公の顔に浮かぶのは少しの焦燥と、消えない憎悪。
血の繋がった後継者を抹殺せよと命じる彼の心がどこにあるのか、シンにはわからない。
ただ名指しで命じられた以上、シンに許されたのは首肯することだけ。
否、とは唱えることは許されない。

賭けのような手段を取ったのは、己でも判断に迷ったから。
記憶を失い1人の青年として近づき、信頼を得てから手を下す。
そう思い描いた計画は、己の思慕によって悉く潰された。
蘇りそうになる記憶を無意識に封じて、彼を慕うただの青年として過ごすことを選んでしまった。
それが続くことがないと知りつつも――。







   ◇◆◇   ◇◆◇







意識がゆっくりと上昇していく。
目覚めた途端見えた景色に、知らず落胆のため息が漏れた。

――戻ってきてしまった

あの夢のような桃源郷から、血塗られた現実へと。

「大丈夫ですか、シン? 混乱していませんか?」

気遣わしげに見下ろしているのは兄弟のように育ったレイ。
その細い指がそっと頬に触れる。

「大丈夫です。…ゴウとガイは?」
「ゴウはゼウス様の所へ。ガイはマヤと外出しています。…よかった、思い出してくれたんですね」

安心したように微笑むレイに苦笑を返してシンはベッドから起き上がった。
入り口の傍には暗い表情のキラ。
おそらく記憶を取り戻したことに関して気にしているのだろう。
彼が気に病む必要などないのに。
一見傲慢に見えがちなキラだが、その内面はとても繊細だ。
高い矜持が邪魔をして他者には尊大に振舞ってみせるけど、シンにだけはその心中を吐露してくれるため、その顔色一つで何を考えているかわかってしまう。

「キラ、心配かけてしまいましたね。すみません」

小さく微笑めばわずかに逸らされた瞳。
無理をしているとわかってしまったのだろうか。

「ありがとう、キラ」
「シンさん…」
「もう、大丈夫ですから」

キラはシンに優しい。
だから彼が何を悟ろうともそれをシンに告げるようなことはしない。
シンもそれがわかっているからあえて笑うのだ。

「もう――十分です」

最初から選択肢など許されていなかった。
それなのに我儘を言ったのは自分。
思うところはあっただろうにシンの意志を尊重してくれたゴウとキラ。
これ以上引き伸ばすことは不可能。
シンがやらなかったところで他のメンバーが出るだけだ。
そして、おそらくその人物はゴウだ。
四聖獣のリーダーであり、シンが知る限りで最も強い人物。
暗殺者という肩書きに相応しくない青年は、表向きゼウスの側近として常に傍らに控えているが、彼の武人としての能力は国内でも髄一だろう。
シンですら遠く及ばない。
ゴウの手にかかってユダが敗れるくらいなら…。



脳裏に浮かぶのは優しい笑顔。
慈愛に溢れる存在、唯一の光。
傍にいたいと思っていた。
叶えられたと思ったのはほんの刹那。
目覚めてしまえば一瞬で消えてしまう、泡沫の夢。
消えた幻の後に残ったのは、抗えない現実の呪縛。



「ユダを、討ちます」



それは決別の言葉。



涙は出なかった。


  • 09.09.17