Sub menu


Lost Heaven 15


ルカがその部屋へ足を踏み入れた時、そこではすべてが終わっていた。
ガラリとした室内。そこにシンの姿はない。
いつもならばいるはずの机には書庫から持ってきた本が丁寧に置かれていて。
読みかけだったのだろう1冊の本が床に落ちていた。
倒れた椅子。開かれた窓。風に揺れるカーテン。
呆然と窓辺に立ち尽くすユダの姿。
何があったのかなんて聞かなくてもわかる。
ルカは唇を噛み締める。
ここ数日音沙汰がなかったため、つい油断していた。
ユダの最大の弱点であるシンを、四聖獣が放っておくはずがなかったのに。
屋敷にいるから安全だと、過信していたのが悔やまれる。
暴れた様子は見られないから、おそらく抵抗らしい抵抗もできなかったのだろう。
細身のシンは武芸とはおよそ無縁だろう。
人並みの運動神経はあるだろうが、それでも国内最強の暗殺者を相手に何が出来たとも思えない。
唯一の救いは命を奪われたわけではないということか。
だがそれも今後の保障などどこにもない。
ゼウスが始末しろと言えば顔色を変えずに彼らはシンを殺すだろう。
彼らは国主の命にのみ従うのだから。
だからこそ、事は一刻を争う。
罠であることは間違いない。
だがそれでもシンを見捨てることはできないのだ。ユダも己も。

「…ルカ」

振り返りもしないユダの視線は窓の外に向けられている。
押し殺した声は、自制心に長けたユダですら隠し切れない怒りを宿していた。
それ果たしては四聖獣に向けられたものか、それとも目の前でシンを奪われた自分に向けられたものか。
あえて聞く必要はない。
ユダが本気になった。それだけのことだ。

「何だ」
「四聖獣の居場所をすぐに調べるんだ。何としても今日中にシンを取り戻す」
「了解した」

低く告げる主の声に、ルカは頭を下げた。







   ◇◆◇   ◇◆◇







何が起こったのだろう。
目が覚めたシンは自分がいる室内をぐるりと見回して首を傾げる。
見覚えのない部屋だ。
ユダの屋敷にあるシンの部屋でもなく、かつて生活していたアパートでもない。
高価な調度はユダの屋敷と同等、一見すれば屋敷内の自分が知らない部屋かもしれないが、シンにと定められた部屋があるのに別の部屋にいる理由が思いつかない。――ユダの私室ならまだしも。
ゆっくりと寝台から下りる。
服は朝着替えたままだ。
見慣れない窓の景色。――否、どこか見覚えがあるような気がしなくもない。

「こ、こは…?」

ただでさえ目覚めはあまり良くないのだ。
ぼんやりと霞がかった頭で考える。
ユダと共に目覚め朝食を摂り、仕事に赴くユダを見送ったのが、シンの記憶の中ではつい先程。
車が見えなくなるまで見送り、いつものように部屋に戻った。
書庫から物色した本を読もうと机に向かおうとして、背後に感じた人の気配。
振り返ろうと思ったその後の意識がない。

「――っ?!」

何者かに連れ去られたのだと気づいたのが我ながら遅すぎる。
ユダは常に命を狙われているとルカから聞いた。
この後の情勢如何によっては更に激しくなるだろうことも。
そして、己がその囮として使われる危惧があるという可能性もルカから示唆された。
そのため極力外出を避けるように言われたことは記憶に新しい。
だが、まさか安全だと思っていたユダの屋敷を急襲されるとは思っていなかった。
か弱い女性でもないというのに、みすみす拉致されてしまう己の不甲斐なさが嫌になる。
幸い室内に見張りの姿は見られない。
窓の景色を見ればここが首都なのだとわかるし、このアパートが相当の高さにあるということもわかる。
この場所の特定と、どうにかして逃げられないだろうかと窓辺に近寄ったシンの背後で小さな音がした。
扉が開いた音だと認識したシンが慌てて振り返ると、開いた扉から現れたのはシンが想像していた屈強な男性ではなく、むしろ女性と見紛うほどの繊細な顔立ちの青年だった。
シンと同等かそれよりも細身。
華やかな雰囲気の青年は柔らかい笑顔をシンに向けていた。

「目が覚めましたか、シン。気分が悪いとかありませんか。少々手荒な方法を取ってしまったと反省してたんです」
「…レイ?」

飲み物を持ってきましたよと微笑む青年を、シンはよく知っていた。
同じ孤児院で育った、親友とも呼べる人物だ。
何故彼がここにいるのか。
そして彼の言葉の意味することは――。

シンの困惑に気づいたのだろう、レイが困ったように笑う。

「ここは僕らのアパートですよ。正々堂々と呼び戻すのは難しそうだったので、ちょっと強引に戻ってきてもらいました」
「何を…」
「タイムリミットです、シン」

ゆっくりと首を振るレイを、シンは呆然と見つめる。
言われた言葉の意味がわからない。
戻るも何も、シンはここを知らないのだ。
シンが戻るべき場所はユダの元でしかなく、いくら友人とは言え強引に連れ去ることなど甘受できるはずがない。

「どいてください、レイ。私はあの方の下へ戻らないといけないのです」
「駄目です。それは許しません」
「レイが許さなくても、私は戻りたいのです!」
「シン…」

断固として言い放つシンにレイの双眸が瞠られた。
戻りたい。戻らねばならない。
傍にいてほしいと言われた。傍にいると誓った。
ユダのためではなく、自分のために。
シンは彼の元へ戻らなければいけないのだ。

半分ほど開いたままの扉に向かって走り出す。
状況はわからないけれど、レイが自分をこの場所に留めようとするのならば強引に帰るまでだ。
友人の脇をすり抜けて廊下へ続くだろう扉へと手を伸ばす。
だが開いた先にあるのは廊下ではなく、またもや見知った人物の姿だった。
どこかつらそうな顔をした、弟のような存在。

「キラ…」
「シンさん」

強く肩を掴まれた。
困惑と動揺に支配される。
彼らの真意がわからない。
どうして邪魔をするのか。自分はただ帰りたいだけなのに。

細く、だがシンより大きな手が両目を覆った。

「……ごめん」

小さな謝罪の意味を理解する前に、キラの手から大きな波動を感じて息を呑んだ。
脳に直接響く衝撃にふらりと身体がよろめく。
それまで自分を形成していたすべてのものが音を立てて崩れていく。



守りたい。約束したのだ、傍にいると。私のすべて。唯一の――。



「ユダ…」



瞼に浮かんだ笑顔に呼びかけ、シンはその場に崩れ落ちた。


  • 09.08.28