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Lost Heaven 13


それは賭けに似ていた。
思慮も分別もあり、己の立場を十分過ぎるほどに認識している義弟から言われた一言に、今まで過ごしてきた日常が全て破壊されてしまうであろうという不安を抱かなかったかと問われれば、おそらく否定できないだろう。

『ひと月だけ時間をください』

彼を見極めてみたいんです、と。
新しい任務を言い渡した時に彼から返ってきた言葉は少しだけ意外だったものの、彼があの男に少なからず感情を抱いていることを知っていたから反対できなかった。

『あの方はどなたですか?』

幼い頃、そう問いかけた視線の先にいたのがあの男だった。
彼は公子でいずれ自分達は彼のために働くのだと告げれば、少女のような顔を輝かせて喜んでいた。
清廉潔白で強い意志を瞳に宿した公子は、正にシンにとって憧れだったのだろう。
彼のために少しでも役に立てるようにと技を磨き知識を蓄えている姿は健気で、彼が大公に就任した暁にはさぞや有能な秘書となるだろうと、自分のことのように誇らしかったのを覚えている。
――だが、それは叶わなかった。
公子は大公と道を別ち、大公はそんな彼を排除せよと命じた。
自分達はそれを拒否することを許されていない。
何故なら自分達の主人は大公であり、彼の命令は絶対なのだから。
それでも一臣民として国民としてこの命令に納得がいかないことも事実。
だからこそ、シンに任せたのだ。
大公からの命令を伝えれば一瞬だけ辛そうに眉を顰め、反論したいことも多々あっただろうに俯いて小さく一言だけ――わかりました、と。
その代わりに提示された案。
ひと月の猶予。それを拒むことはどうしてもできなかった。
見極めなくてもわかっているだろうに、という言葉は飲み込んだ。
それを告げるのはあまりにも酷だったから。
彼がどう出るか――廃嫡された公子をどう判断するか。
興味があった。シンが誰を選ぶのか。どのような方法で公子――ユダに近づくのか。
まさかキラの能力を使うとは思わなかったが、シンの性格を考えれば無理もない。
シンは仕事と割り切れば非情なこともやってのけるが、その心根は素直で純粋。
心を許した者を相手に隠し事を出来るほど器用ではないのだ。
尊敬するユダを前に己の素性を隠しとおせるとは思えない。
況してやいずれ殺さなければならないだろう相手を前に、シンが平然としていられるはずがない。
だからこそキラに頼んで記憶を操作したのだろう。
表の顔だけを残して、暗殺者である事実のみ隠匿して。
記憶がなければシンはただの善良な市民でしかない。
反射神経は人並み以上だが、本来の性格はおっとりしているため怪しまれることはないだろう。
生まれた時から一緒にいるゴウですら、シンほど裏の世界にふさわしくない人物はいないと思っているのだから。

間もなく、刻限になる。
全てを思い出したシンがどういう行動を取るか、それによってこの国の行く末は大きく変わるだろう。
それが楽しみであり、そして恐怖でもあった。







   ◇◆◇   ◇◆◇







目覚めたシンは、己が優しいぬくもりに包まれているのに気付いた。
すぐ傍にあるのはユダの端正な顔。
触れる感触が素肌のそれだと気づいて、すぐに羞恥に顔を染めた。
きつく抱きしめられて愛を囁かれて、その後どちらからともなく触れ合った唇。
優しく力強いそれにそのまま流されるように身体を重ねたのは昨夜のこと。
優しくできないと言われたのを覚えている。それでもいいと頷いたのも。
今まで男性だけでなく女性との経験もなかったシンにとって、ユダから与えられるそれは未知の領域だった。
正直恐怖はあった。それでも触れる肌も熱も全てがユダからもたらされるものだから受け入れることができたのだ。
寝台の下に脱ぎ捨てられた互いの衣服と肌に残る情痕が、昨夜の行動を嫌でも思い出させる。
慌てて服を着ようにも逞しい腕でしっかりと抱え込まれている今の状態ではそれも難しい。
多分、無理やりほどけば抜け出すことは可能だろう。
だがそうすれば必然的にユダを起こしてしまう。
安らかな寝顔を見せるユダを起こしてしまうのは忍びない。
目が覚めればユダには激務が待っているのだ。
眠れる時にゆっくりと眠ってほしいと思うのは当然のこと。
況してやユダの寝姿など滅多に見れるものではないのだから、しばらく眺めていたいと思ってしまっても仕方ないだろう。
彫刻のように整った造作。
神の愛を一身に受けたとしか思えない奇跡の美貌は常ならば近寄り難い雰囲気を醸し出しているのだが、静かに伏せられた眼差しのせいか寝顔はとても穏やかだ。
むき出しの肩は広く逞しく、どんなにトレーニングをしても筋肉がつきにくい自分と比べてとても男らしい。
昔から憧れていた。彼ならばこの国をより良い方向へ導いてくれるのだと。
そんな彼の率いる国の民でいられることがとても誇らしかった。
叶うならば末端でもいいから彼の元で働きたいと、そう願い勉学に勤しんだ。

今、その願いは違う形で叶えられた。
とても信じられない、夢のような形で。

本当に夢じゃないかと思い頬をつねろうとしたのだが、それは寸前で大きな手によって阻止された。
突然握りこまれた手に驚いて視線を移せば、そこには悪戯っぽい笑みを口元に浮かべたユダの顔。
寝起きとは思えないその瞳の輝きに、随分前から目が覚めていたのだ分かるが、至近距離から見つめられてしまえば声が出ない。

「おはよう、シン」
「お…おはようございます…」

驚くほどの艶っぽさにどぎまぎしながら答えれば柔らかな笑みが唇の端に浮かんだ。
ぎゅっと抱き込まれてそのぬくもりに安心する。

「アパートを引き払わないといけないな」
「え?」
「悪いが、お前を手放すことはできなそうだ。このまま俺と一緒に暮らしてもらいたい。駄目か?」
「そんな…」

ユダの望みを叶えないなんてありえない。
一緒にいたいのは自分も同じ。断る理由があるはずもない。

「今日中にも手配しよう」
「はい」

ユダの腕の中。至福のひと時。

この時はまだ気づかなかった。



この平穏が壊れる刻が迫っていることなど――。


  • 09.07.07