それはあまりにも甘美で誘惑に満ちていて、ともすれば流されてしまいたいと思うほどに魅力的な言葉だった。
まるで悪魔の囁きのように。
己の心の奥深くしっかりと閉じ込めて鍵をかけてしまった本当の願望を、いとも簡単に叶えられる手段を差し出されて受け取らずにいることは難しい。
況してや相手は自分よりも数段上手のルカだ。
ユダも望んでいると言われて、どうして逆らえることができるだろう。
シンの了承を得たルカはそのままシンをユダの部屋へと連れていった。
気軽に入っていいと言われているものの、シンがこの部屋に足を踏み入れることはほとんどなかった。
綺麗に整理された室内は、彼自身の気質を表しているようだ。
広い室内に沈黙が走る。
切れ長の目を細めてルカを見やるユダと、それを正面から受け止め楽しそうな笑みを口元に浮かべるルカ。その傍らには居心地が悪そうに縮こまるシンの姿。
飲み物を運ぶためにやってきて現場に遭遇してしまった使用人は、ユダが可愛がっているシンをルカが横から奪った光景に見えたと同僚に話していたほど、その空気は冷たかった。
己の不機嫌な顔に泣きそうになっているシンに気づいていながらも敢えて視線を投げないようにしながら、ユダはルカを睨む。
「どういうつもりだ?」
「どういうも何も…お前の望む結果だと思うが」
しれっと悪びれないルカにそうではないと答える。
声の響きが通常よりも険しいものになってしまったのは自覚している。
その声にルカの背後に隠れるように立っていたシンの身体が小さく震えたのも。
それに気づいたルカがあやすように細い肩に手をやるのが、またユダの癇に障った。
「普段は温厚なお前らしくもない。可哀相に、シンを怯えさせてどうする」
「お前が勝手をするからだろう。シンをこのまま滞在させるなど」
「おや、お前が望むことだと思ったからだが。上司の気持ちを察して行動をする、まさに部下の鑑じゃないか」
「ふざけるな。シンを束縛する権利はお前にない」
「わかっているさ。だからシンに決めさせた。確かに提案したのはわたしだが、決めたのはシンだ」
「どうせ強引な方法を使ったのだろう」
「失礼な。紳士的な話し合いしかしていないさ」
ああ言えばこう言う。
自分よりも遥かに口が立つルカには何を言っても無駄だとわかっているが、それで言わなければ行動は更にエスカレートしていくに違いない。
思わず額を押さえたユダに、ルカの声が落ちる。
「お前だってシンと離れたくないと思っていたのだろう。反対する理由などどこにある」
痛いところをつかれてユダは押し黙る。
確かにその通りだ。
シンと離れたくないと思っていたのも事実、シンに他には抱いたことのない執着を抱いているのも又、事実。ルカの言葉は正しい。
だがユダの傍にいることがシンにとってどういう結果になるかわかりすぎるだけに、ユダはこの事態を歓迎できない。
ユダは現在父であるゼウスから命を狙われている身だ。
幸いここ数週間は静かなものだが、それでも外出先で暴漢を装った刺客に襲われることは珍しくない。さすがに白昼堂々、公衆の面前でという事態は起きていないが。
実際シンがこの屋敷に逗留する経緯も刺客に襲われた結果だ。
このまま一緒にいればシンに危険が及ぶことは間違いない。
防ぐ手立てはただ1つ。
シンの単独行動を極力控えさせ、常にSPを傍に置いておくしかない。
結果としてシンに普通の学生としての日常を捨てさせることになりかねないのだ。
それでもシンには常に危険がつきまとう。
ユダを狙うものがユダの大切にしている存在に目をつけないはずがないのだから。
それがわかっていて、どうしてシンを身近に置いておけるだろうか。
ユダはシンと初めて出会った日のことを忘れていない。
巻き込まれて大怪我を負ったシン。
蒼白な顔で血溜まりの中に倒れていたシンを思い出せば今でも血の気が下がる。
あのような危険な目に、もう二度とあわせたくないのだ。
勿論シンと一緒にいたいとは思っているが、それはユダの我侭に過ぎない。
自分の目の届かない所でも構わない。
シンには穏やかな日常を過ごしてもらいたい。そう思う。
そんなユダの苦悩などとうにお見通しなのだろう、ルカの唇が弧を描く。
「即答できないのだろう。つまり、そういうことだ。お前はいつも誰かのために生きてきた。一度くらい己の欲しいものを手に入れても誰も文句は言わないぞ」
「ルカ!」
「選んでも選ばなくても、どちらにしても後悔するのに変わりはない。だったら本当に大切なものくらい手の届くところに置いておけ」
ひらひらと手を振って部屋を出て行くルカに何を言えばいいのだろう。
ルカには常に人の心の奥に潜む感情を気づかれてしまう。ポーカーフェイスは得意だと自負しているのだが、どうしてもルカにはかなわない。
扉が閉まるまでその背中を見送って、ユダは大きく息をついた。
あの義弟には一生敵わないと思ってしまうのは、おそらく気のせいではないだろう。
「あの…」
小さな震える声がユダの耳に届く。
それまで所在無い様子で控えていたシンが、胸の前で手を握り締めて立っている。
今にも泣きそうなのは、間違いなくユダのせいだろう。
ルカに何を言われたのか想像がつく。そしてそれが間違いではないことも。
それなのにユダの否定にあってしまったのだからシンがどうしてよいかわからないのも当然だ。
それでも部屋を飛び出していかなかったのは、シンなりに何かを覚悟してのことなのだろうか。
そんな健気な姿すら愛しい。
末期だなと思い自嘲する。
それをどう受け止めたのか、シンの瞳が不安そうに揺らめいた。
「私がいては…ユダの迷惑なのでしょうか…」
突き放さなければいけないと頭ではわかっているのに、泣きそうな顔を見てしまえば首を振ることしかできない。
「そうではない。お前を危険な目に合わせたくないだけだ。俺の傍にいなければお前に危害が加えられることはない」
「でも、ユダは危険なのでしょう。私が知らないだけで、今まで何度も危険な目に遭ってきたのでしょう」
「それは仕方ない。父に反抗している以上、妨害は当然のことだ」
「私は嫌です! ユダが危険な目に遭っているのにそれに気づかないで呑気に生活していられません!」
常に控え目で自分の主張を押し通すことのなかったシン。
ユダは自分の感情よりも他人の都合を優先してばかりのシンしか知らない。
感情を露わにしたシンを初めて見た。
「シン…」
「ルカに聞きました。貴方は命を狙われていると。だから私をこのまま傍に置いておくことができないのだと。全ては私の身を案じてのことだと。違いますか」
ユダは首を振った。
全てはシンの安全のため。でなければ誰がシンを手放したいと願うだろうか。
これほど執着する存在など生まれて初めてだと言うのに。
ユダの否定にシンの肩から力が抜ける。
「…ありがとうございます」
「シン?」
「貴方がそこまで私の安全を考えてくださったことはとても嬉しいです」
でも、と告げる声は強い響きがあり、ユダに譲れない想いがあるのと同様にシンにも何を犠牲にしても譲れない強い想いがあるのだと証明していた。
「確かに私は無力です。でも、傍にいれば何かしらの力になることもできます。いざとなればこの身を呈して貴方を守る盾にだってなれます」
「っ! それはダメだ!」
「いいえ! 貴方の傍にいられないことよりもつらいことなんて、私にはないんです。お願いです、ユダ。どうかいらないなんて言わないでください。私を…否定しないでください」
「シン…」
「あなたを…愛しているんです…」
傍に置いておけば危険だとわかっている。
いつ、何時、ゼウスの暗殺部隊が襲撃を仕掛けてくるとも限らないのだ。
しかもユダの相手はゼウス直属の暗殺部隊の中でも最高峰に位置する四聖獣。
ユダ1人でも防ぎきれるかどうか。
そんな中で己の身を盾にすると宣言するシンを傍に置けばどうなるか、想像に難くない。
突き放すべきだとわかっている。
だが。
真摯な告白と、眦から零れた一滴の涙。
愛しい人のそれに逆らえる男がどこにいるだろう。
きつく抱きしめた身体は細く華奢で、力を込めたら折れてしまいそうだ。
「ユダ…」
小さな声が耳朶をくすぐる。
愛しています、という声に俺もだと答える。
何て陳腐な台詞。他にもっとシンを喜ばせられる言葉はないのだろうか。
シンの言葉が自分に与えたような感動をシンにも与えたいと思っているのに、言葉は無駄に頭の中を空回りして、ただ腕の中のぬくもりを逃がさないように抱きしめるしか出来なかった。
- 09.06.17