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Lost Heaven 11


「じれったいな」

言葉の意味がわからないシンは、銀髪の青年を認めてきょとんと目を瞬かせた。

この屋敷で世話になって以来、シンは1日のほとんどを書庫で過ごしていた。
ユダが15歳になった時に大公から譲られたというこの屋敷は、大公邸に比べれば遙かに小さいもののそれでも一般家庭とは比べるべくもない。
父としてか為政者としてか、将来の大公への期待を込めていたのだろうか、特に蔵書の数は大学の図書室とほぼ同等の規模を備えており、ずらりと並んだ書棚には大公家の刻印が施された書物が分類ごとに並んでいた。
経済学や帝王学だけでなく歴史や科学、果てには伝記や随筆など多岐に及んでおり、専門的な書物しか置いていない大学の図書室とはまったく違う。
無類の読書家であるシンがこれらを前に子供のように目を輝かせたのは当然だろう。
好きに利用していいと言われて満面の笑みで頷いたシンは、それ以来時間があればいそいそと図書室へ赴き、両手に抱えられるだけの本を持ってきては自室あるいは書庫に置かれたソファで本を読みながら1日を過ごしていた。
勿論ユダが帰宅する際には必ず姿を見せるし、彼が忙しくなければ話し相手として共にいることも多いけれど、多忙なユダが屋敷にいることは少なく、結果としてシンは1日のほとんどを本とにらめっこをして過ごすという日々が続いているのだ。
それを咎める声はない。ただあまりにも本に夢中になって寝食を忘れることもしばしばあったためか、食事の時間になると執事がやってきて反応もそぞろなシンを半ば無理やりに食堂に引っ張っていくことも珍しくなかった。

そんなシンは本日もまたユダを送り出した後でいそいそと書庫にやってきたのだが、読みたい本を物色している最中に言われたこの一言に伸ばしかけた手を止めたまま背後を振り返った。
そういえば今朝は珍しくユダが1人で出かけていた。
秘書として常にユダと行動を共にするルカが別行動なのには少々驚いたのだが、ルカにはルカの仕事があるのだろうと思い特に気にしなかったのだ。
振り返った先にあるのは怖いくらいに整った顔。
ユダとは異腹であるルカは外見で共通する特徴は見当たらない。
むしろ母親譲りの美貌の持ち主であるユダと違い、ルカは髪の色も瞳の色も父であるゼウスに似たのだろう。
ゼウスよりは少々繊細な顔立ちをしている上に、一般人がゼウスの尊顔を拝める機会など少ないために、ほとんどが出回っている肖像画や写真でしか大公の姿を知らないのだから定かではないのだけれど。
ユダほど迫力はなくても、ルカも目を奪われるほどの美形だ。
整った造作はそれだけで威圧感があるし、ルカの持つ孤高の雰囲気が一層それを強調させている。
さすがにこうして月日を過ごせば見慣れてくるものだが、それでもこの2人の存在感には常に圧倒されるばかりだ。
これがカリスマというやつだろうかと、告げられた言葉もすっかり忘れてしばしシンはその深紅の瞳に見入った。

「まったくもってじれったい。お前…否、お前達は一体何をやっているんだ」
「ルカ…?」

先程より増えた語彙に、だがどうやってもシンは意味がわからない。
これでも他人からは聡いと言われているものの、如何せん情報が少なすぎる。
何がどうじれったいのか言われなければ自覚がない以上わかるはずもない。
シンの両手には数冊の本。
昨日部屋に持ち帰った本を戻しているところなのだが、もしかしたら手際が悪いと言われているのだろうか。
書庫は分類ごとに分けられている上にシンが選んだ本はジャンルもまちまちだ。
ハードカバーのそれを片手に持ち一冊一冊戻すのは至極当然のことだと思う。
確かにこの屋敷には執事の他に数人の家人がいるが、彼らはあくまでもユダやルカに仕えているのであって、いくら客人とは言えシンが個人的に持ち出した本まで片付けさせては申し訳がない。
それに幼い頃から他人に傅かれて育ったユダやルカと違い、両親もなく施設で育ったシンは自分のことは自分でするようにと幼いころから躾けられているのだ。
極当然の行動と言えよう。
そんなことを考えながら不思議そうにルカを見上げるシンに、ルカは言葉の意味が通じず苛立った様子は見られない。
むしろシンが見当違いのことを考えていることなどお見通しだと言うように、口の端を持ち上げて小さく笑う。
素直で誠実でおよそ相手の腹のうちを探るということのできない人物、ルカはシンをそう認識している。
それは愛すべき要素であると思っているし、むしろ実父との確執でささくれだった精神を癒してくれる貴重な存在だと思っているのだが、如何せんルカの「愛する」は「揶揄う」と同義語である場合が多い。
今回も例に漏れずそうである。

「えと…ルカ…?」
「お前とユダは一体いつになったらくっつくのだ。まるで小学生の恋愛でもあるまいし、見ていて実にじれったい」
「…………っ!!」

ここまで言われて気づかなかったら鈍いどころではないだろう。
さすがに理解したシンは、だが反論することもできず真っ赤になった。
それこそがルカの意図するものだとは気づくはずもない。
バサリ、と手から本が雪崩落ちた。

「ええええええとえとあの…わわわ私とユダはななな何も」
「そこまでどもっていて何もないという台詞は信憑性がないと思うぞ」
「い、いえ、ですから私とユダは何も…」
「お前はユダをどんな目で見ているのか気づかないのか。あれほど熱の篭った視線、ユダでなくとも気が付くというものだ」
「………っ」

己がユダに対して敬愛以上の想いを抱いている自覚はあった。
だけどそれはあくまでも一個人として、ユダという人物に対して尊敬と憧憬の念を抱いているからだと思っていたのだが、ルカの言い方ではまるでシンがユダに対して恋情を抱いているように聞こえてしまう。

「それはあまりにも不敬です。私はそうではなく…」
「不敬? ユダは確かに公子だが、あれは大公から排斥された男だぞ。それはほとんどの国民が知ってる通りだ。大公に対して反旗を翻してはいるものの、その地位は一般人と大差ない。何故そこまで畏まる必要がある」
「そういう意味ではありません。ユダは確かに尊敬していますがそういった感情は」
「抱いていない、とお前はそう言いたいのか?」
「そ…」

そうだ、と言いたかった。
だが目の前の深紅の瞳に射すくめられたように声が出せなかった。
からかう口調。だがその瞳の奥には強い光がある。
違う、と言いたい。だが、それを許してくれない。
一歩また一歩とルカが歩を進める。
無意識に後ずさったシンはすぐ後ろの書棚にぶつかって止まった。
冷静に考えれば逃げる必要などなかった。
だけどルカの眼差しが厳しくて、シンはまるで叱られた子供のように俯いて目をぎゅっと閉じた。
ややして聞こえた吐息。そして頭に触れる温かいぬくもり。

「…お前は本当に素晴らしいほどに鈍いな」
「……ルカ?」

声の響きがとても優しくてシンは恐る恐る目を開ける。
先程見せた強い光は姿を潜め、変わって浮かんでいるのは優しい光だ。

「お前はわたしのことをどう思っているんだい、シン?」
「素晴らしい方だと…尊敬しています」
「では、ユダは?」
「尊敬、しています」
「それだけではないだろう」
「え…?」

ふわり、と抱きしめられた。
突然の行動に声もないシンだが、耳元で囁かれた言葉に目を見開いた。
くすり、と笑う意地の悪い笑みが自分を見下ろしている。

「ユダには真っ赤になっていたじゃないか。わたしとユダ、どう違うんだい。君はわたしとユダとどちらも尊敬していると言ったね。では、わたしに抱かれて何とも思っていないのに、ユダに対してはどうしてああも狼狽えるのか教えてほしいね」
「そ、それは…」
「どうやら自覚がないというわけではないらしい。何を頑なに己の感情を押し殺しているのか聞きたいとは思わないが、ユダのためにその感情を解き放ってもらいたいものだな」

軽い口調とは裏腹に、やはり瞳に浮かぶ光は真剣そのものだ。
何がユダのためなのだろうかと顔を上げると、あの男は堅物すぎてねとルカが告げた。

「己の使命は国民を幸せにすることだと豪語する男だ。それに関してはわたしも依存はないが、如何せんユダは思い込んだら一直線の直情型なのでね、不眠不休は当たり前。放っておけば何も食べずに動き回るような男だ。更には危険な目に遭っても警戒をしないばかりか、今が好機だと更に外出を増やす始末。もう少し自分の身を大切にしてほしいと思うのは、身内としても部下としても当然だろう」
「それはそうですが…」
「そこにシン、君の存在だ。わたしが知る限りで唯一ユダが執着したのが君だ。君がいるだけでユダは己を制御する。家にも帰ってくるし食事も取る。たまには休暇を取れと再三言っているにも関わらず全く聞く耳を持たなかったあいつが、君を外出させたいという理由で休暇を願い出たほどだ。これは我々にも願ったりな事態なんだよ」
「は、はぁ…」
「我々としてはこのまま君にこの屋敷に留まってもらいたいのだが、君は来週家へ戻るとユダに伝えたそうだね?」

質問ではなくて断定。
事実その通りなのでシンは頷く以外に方法がない。
怪我もすっかり癒えた。
この屋敷に厄介になってからそろそろひと月。
日常的な行動には支障がなくなったのだから家に帰るのは当然のことだ。
帰りたくない、という個人的な感情は許されない。

「だがそれでは困るんだ」
「ルカ?」
「ユダは日に一度は君の顔を見ないと落ち着かないし、わたしも君を弟のように可愛いと思っている。君もこの屋敷が居心地が悪いというわけではないのだろう?」
「それは勿論です。とてもよくしていただいています」
「だから、君には是非このままこの屋敷に残ってもらいたいと思っているのだよ」
「そ…それは…」

ゆるい拘束なのに逃げられないのは脳が思考を拒否しているからではない。
ユダとルカはあまり感情が表に表れない。
だが決して無表情と言うわけではなくて、彼らの感情はすべて瞳に表されているのだ。
優しい言葉。なのに瞳はシンが否という言葉を発することを禁じていて。
ゆっくりと近づく顔。吐息が耳にかかる。

「わたしのお願いを、聞いてくれるね?」

抗う術はない。


  • 09.06.12