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Lost Heaven 10


そのアパートメントは首都の中心部にあった。
世界の富豪がどれほど金を積もうと立ち入ることが許されないゼウスの所有地の中でも一等地にあるそれは、立地条件も然ることながらゼウスが寵愛する芸術家の設計ということもあり、どのアパートメントの中でも一際美しく豪華だった。
多くのセレブリティがこのアパートメントへの居住を希望したが叶うことはなかった。
このアパートメントは国の情勢を否定するかのように、そこに住むことができるのは純粋なオリンポス人だけ。
たとえ居住権を得ていようとも国外で生まれた者はたとえ誰であろうと居住を許されなかったのだ。
開放的なこの国の中で唯一の例外。
金さえ出せば何でも買えると豪語しておきながら、ゼウスはその一角だけは断固として国外の者が足を踏み入れることを良しとしなかった。
正面には常時2名の警備員の姿。
屈強な彼らに阻まれて中を窺い知ることはできない。
古代バロック様式を模して作られた建物は重厚かつ豪奢な外観をしており、バロック様式特有の空間の複雑さや多様性を見事に再現しているため、芸術的価値も高いと絶賛されているほどだ。
上部にずらりと並んだ彫像は十二使徒ではなく古代ギリシャの神であり国名と同じ名を戴く縁からか十二神の彫像。
世界中から名だたる彫刻家を集めて作らせたというだけあって、どれも見事な出来栄えで今にも動き出しそうなほど精巧だ。
荘厳な教会のようにも見えるそれは、他のアパートメントとは桁外れの豪華さを備えていた。
世界の富豪がそこに住みたいと思うのは当然だった。
何故その場所へ住むことが許可されないのかと不満を抱く者は多かったが、ゼウスから理由を語られたことはないため真実は誰も知ることはない。
また、その話をした者はオリンポスへの居住権を剥奪されて国への立入を禁止されてしまうことから、誰もが口を閉ざしている。
触れてはいけない代名詞でもあるかのように、彼らは建築者の名を揶揄してそれをある呼称で呼ぶ。

パンドラの箱――、と。







   ◇◆◇   ◇◆◇







その場所へ、今まさに足を踏み入れようとする若者がいた。
何やら不機嫌らしく小柄な身体全身で「怒っています」というオーラを醸し出しながら大きな歩幅で歩いている様子は何となく微笑ましい。
だが彼がまっすぐ進んでいく先にあるのは、通称『パンドラの箱』と呼ばれるアパートメント。
偶然通りかかった者は少年が警備員につまみ出されることを信じて疑っていなかった。
だが警備員は少年を追い返すどころか一礼してすんなりと道を開け、少年はそのまま扉の奥へと姿を消したのだ。
見るからに普通の少年。強いて言えばとても可愛らしい顔立ちをしていたが服装は至って普通で、どこにでもいそうな少年だ。
なのに何故、という言葉は居合わせた誰の口にも上らなかった。
この国で平和に暮らすには触れてはいけないルールがいくつかある。
その筆頭がこのアパートメントの存在なのだと、誰に言われるでもなくわかっていたからである。
過ぎたる好奇心は身を滅ぼす。
それは決して大袈裟な表現ではないのだ。

さて、そんな静かな動揺を周囲に与えていることなど微塵も感じていない当の少年は、エレベーターを降りるなり目的の部屋の扉を勢いよく開け放った。
名工の手から生まれた繊細な模様が施された最高級のオーク材の扉も、少年にしてみれば邪魔な板でしかない。
その先に見える目当ての人物へと視線を見据えたまま、大きなスライドで室内へと足を踏み入れる。
毛足の長い絨毯で戯れていた猫が驚いて逃げていくが、普段可愛がっている猫の様子にすら気が付いていないようだ。

「どういうことさ、これ!」

相手には意味がわからないだろう台詞を言い放つ。
案の定、言われた人物は眉を顰める。

「久しぶりにやってきたと思えばいきなりそれか。主語を言え、主語を」
「だから、どういことかって聞いてるの!」

ソファーに座り悠然と足を組んだままの男性は会話の通じない少年の様子に小さくため息をつく。

「マヤ。頭を冷やして出直してこい」
「だから、シン兄さんのことだよ。どうして嘘ついたのさ」
「嘘?」

青年の眦がわずかに上がる。
マヤは大きく頷いた。

「シン兄さんは仕事だって言ったじゃないか。でもついさっきシン兄さんに会ったけど、そんなことないって言われたよ。シン兄さんはユダさんの暗殺を命じられたんでしょう。何でシン兄さんがユダさんと仲良くデートなんてしてるのさ。変じゃないか」

先程見てきた光景が頭に浮かぶ。
穏やかにユダへと微笑みかけるシン、そんなシンを慈しむように見つめていたユダ。
どう見ても敵対する同士の表情ではない。
自分に向けられるのと同じそれは、間違いなく親愛の証だ。
仲間である自分たちにしか見せない笑顔を見せているということは、シンがユダに対して偽りのない信頼を抱いていると証明している。
確かにユダはひとかどの人物だ。国主であるゼウスに正面から抵抗しているにも関わらず国内外で人気が高いのは、彼がそれなりの人格者だからだ。
理知的で穏やかな性質のシンが、そんな懐の大きなユダに対して憧憬の念を抱いてもおかしくないだろう。
ただしそれはシンが普通の学生だったらの話だ。
シンの正体はゼウス子飼いの暗殺者。
それも最高峰とも呼べる四聖獣の冠を抱く、ゼウスの側近中の側近だ。
まかり間違ってもユダと親しくなることなど許されない。
マヤは目の前の青年から、ユダの暗殺をシンが引き受けたと聞かされた。
だがシンは違うと言う。
演技ではない。それくらい長く一緒にいる仲間なのだからわかる。
ではどうしてか。
考えてもわからないから直接本人に確認しに来たのだ。

「説明してくれるよね、ゴウ兄さん」

幼さの残る顔に険を含ませ、マヤは目の前の青年――四聖獣の長であるゴウを睨む。
シンは実の兄ではないけれど、兄に次いで大好きな人だ。
そのシンのことで自分に嘘をつくなんて、いくら大好きな仲間だろうと許さない。
だがそんなゴウから返ってきたのは困惑で。

「そんなことないと、シンが確かに言ったのか?」
「……え」

戸惑いを隠せない様子の口調にマヤでさえ言葉を失う。
ゴウも知らなかったのだろうか、だがゴウはシンの仲間とは言えシンにとっては上司も同様だ。
シンの行動に関してゴウが知らないことなどあるはずがない。
だが…。

「えと…、ゴウ兄さんも理由を知らない、とか…?」
「俺はシンに一ヶ月の猶予をやっただけだ。ひと月のうちにユダを始末しろと。その間は一切シンに関与しないと約束した」
「え…じゃあシン兄さんはどうして…」

「その理由は俺が話そう」
「キラ兄さん?!」

背後で響いた声に慌てて振り返れば、そこにいたのは兄の姿。
いつも無表情だけれど、今日は何故かそこに複雑な感情が含まれているように感じるのは気のせいではないだろう。
それが何によるものかまでは分からないけれど。

「シンさんは現在、四聖獣としての記憶がない」
「…キラ?」

キラは四聖獣ほどではないが、それに近い地位を得ている。
それは任務の成功率の他に、彼にしかない特殊な能力が関係しているのだが。

「俺が、封じた」

キラは生まれつき特殊な能力を持っている。
それはマヤにも言えることなのだが、どういうわけかこの兄弟には他人を操る能力が先天的に備わっているのだ。
それが原因で実の親からは捨てられてしまったが、この力のお陰でゼウスに拾われ、暗殺者としてではあるが不自由のない生活を送ることができている。
だが彼らが仲間に対してその能力を使ったことはない。
特にキラは己の力を嫌う傾向があったために、ゴウもマヤもその言葉を咄嗟に信じることはできなかった。
況してやキラは唯一シンに対してだけ心を許しているようなところがあった。
誰に対しても皮肉げな態度を崩さないキラではあるが、シンにだけは照れながらも素直に言うことを聞いていた。
弟のマヤのように純粋に慕うのとは少し違う、はっきりと言ってしまえば限りなく恋愛感情に近い気持ちをシンに抱いていたはずなのだ。

「シンに頼まれたのか」

言葉は問いではない。確認だ。
キラの気持ちを知っているからこそ、シンの頼みでもなければ彼の記憶を操作することなどキラには出来ない。
そしてシンも簡単に暗示にはかからないだろう。
子供の頃から知っている2人のことなのだから想像は容易だ。
伏せられた眼差しとかみ締めた唇が、その答え。
ゴウは嘆息した。
今回の任務をシンに一任したのはゴウだ。
経過も手段も問わないと約束した。
間もなく期限のひと月になる。
信頼していたからこそシンに任せたのだ。
その判断が間違っているとは思わない。
だが、シンの気持ちがわからないのも事実だ。
仕事となれば冷酷な仮面を被ることを厭わないが、その本質は思慮深く他人を傷つけることを嫌う、暗殺者としてはあるまじき優しい心根の持ち主。
表の生活を大事にしている彼が、本当は暗殺という仕事を悔いていることをゴウはよく知っていた。
その身を闇に堕としながら、光に恋い焦がれていることも。
どういう理由でシンがキラに己の記憶を封じさせたのかは知らない。想像するだけだ。
考えられる理由はいくつかある。その中の最悪の理由を頭から排除し、ゴウは色違いの瞳をキラへと向けた。
相手が誰であれ傲慢な態度を崩さないキラ。唯一の例外はゼウスとシンにだけ。
そのキラが今頼りない子供のようだ。
シンの身を案じているのだとすぐにわかる。

「まったく、キラに余計な心配をかけさせるとは、シンらしくもない」
「ゴウさ…」
「レイ、ガイ。いるんだろう」

ゴウの問いかけに隣の部屋から姿を現したのは、菫色の髪の少女と見まごう美貌の持ち主と、小柄な少年。

「3日後だ。シンを連れ戻す」
「わかりました」
「りょーかい」

ソファーから立ち上がったゴウは、すれ違いざま立ち尽くすキラの頭をくしゃりと撫でる。
浮かぶのは優しい光。

「お前は悪くない、気にするな」
「ゴウさん…」
「お互い弟には苦労させられるな」

どういうことさそれ、というマヤの声はさらりと聞き流して、ゴウは窓の外に広がる景色を見据える。
信頼はしている。彼が裏切ることがないこともわかっている。
それでも…。

「確かめなければならないな…」

彼らはゼウス子飼いの暗殺者。
四聖獣の名を戴く以上、失敗は許されないのだから。


  • 09.05.31