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Lost Heaven 09


「シン兄さん」
「マヤ…?」

目の前に現れたのは昔からよく知っている人物だったが、いつもは無邪気な笑顔を浮かべていることの多い彼の表情は今日はどこか浮かない。

「どうしてここに?」
「それはこっちの台詞だよ」

彼は幼いころ一緒の孤児院で育った、ある意味兄弟のようなものだ。
この公園は確かに孤児院からそう遠くない場所にあるけれど、徒歩で来れる場所ではない。
極端に乗り物酔いをする彼は遠出を好まず、どちらかと言えば歩いていける孤児院近くの公園を好んでいたはず。
珍しいこともあると思ってそう訊ねたのだが、返ってきたのはどことなく不機嫌さを伴う声で、向けられた眼差しにシンは困惑した。

「今何月か知ってる?」
「6月です、けど…?」
「そう、6月。シン兄さんと僕が最後に会ったのが5月の最初。1ヶ月も音信不通になるなんて今までなかったじゃないか。一体どこ行ってたの?」

頬を膨らませて抗議するマヤの様子は怒っているというよりも、どう見ても拗ねているようにしか見えない。
そういえば怪我をしてからほとんど友人と連絡を取っていなかったのだと、今更ながらに気が付いた。
学校には休学届けが出されていると聞いたけれど、当然のことながらユダやルカがシンの友人に事情を説明しているはずがなく、突然連絡が取れなくなった上に家にも帰らないシンを、兄のように慕ってくれていたマヤが心配するのも当然だ。
うっかり失念していたわけではないけれど、ユダの屋敷に厄介になっていることを連絡しておかなかったのはシンのミスだ。
申し訳ないと思いつつも、本当の兄弟でもないのに心配してくれるマヤの優しさが嬉しくて思わず笑みが浮かんだ。

「ちょっと怪我をしてしまってある方の下にお世話になっていたのです。忘れていたわけではありませんが、確かに連絡をしなかったのは私の不手際ですね。心配させてしまって申し訳ありませんでした」
「怪我? シン兄さんが?」

さも意外そうに目を見開くマヤにシンは苦笑した。
どうやらマヤの中のシンは随分しっかり者だと思われていたようだ。
こう見えても周囲が呆れるほど不器用だし、うっかり怪我をすることも多いのだ。
尤も今回の怪我はそんなレベルではないけれど。

「足を少しだけ。でも、もう抜糸も済みましたし傷口も塞がってますから問題はありませんよ。今はリハビリ期間中と言ったところですから、もう少ししたら家に帰れます」
「抜糸って…それ、少しじゃないよ。大怪我じゃないか! シン兄さんらしくもない。綺麗な肌に傷が残ったらどうするのさ」
「マヤ…」

確かに大怪我ではあるけれど、マヤの心配する箇所はどこかおかしい。
男の自分の肌に傷の1つや2つ残ったところで何がどうなるわけでもないだろう。嫁入り前の女性ではあるまいし。
それでもベンチの隣に腰を下ろして至近距離から見上げてくる瞳には不安げな光が浮かんでいる。

「本当にもう大したことありませんから。皆にも心配かけてすみませんと伝えておいてくれますか?」
「うん。シン兄さんに会えないのは寂しいって皆言ってたから伝えておくよ」

最近孤児院にも顔を出していない。あそこには学校の友人とは違う、家族に近い絆で結ばれた仲間がいる。
最低でも週に2回は顔を出していたから子供達は寂しがっているだろう。
お願いしますねと言えばマヤは嬉しそうに笑ってシンに抱きついてきた。
マヤは今年16歳になるが、兄に溺愛されて育ったせいか年齢よりも随分と甘えたがりな傾向がある。
勿論甘える対象は実兄のキラやシンくらいだが、いつまでも幼い子供のように甘えるのはやめろという声も少なくない。
そのたび喧嘩をしているし、周囲からもあまりマヤを甘やかすなと言われてしまうのだが、どうしてもこの瞳を見てしまうと拒絶することができない。
所詮シンも兄のように慕ってくれるマヤのことが可愛くてしょうがないのだ。

「ところで、シン兄さん。首尾はどう?」
「え?」

耳元でひっそりと囁かれた言葉に目を瞠る。
小さな声は周囲に人がいても誰にも聞かれることはないだろう。それほどに小さな声だった。
マヤの言葉の真意がわからずに首を傾げると、至近距離から見上げてくる無邪気な瞳に困惑が映った。

「え…だって、シン兄さん。任務なんでしょ?」
「任務?」
「だってゴウさん言ってたよ。シンは今仕事だって。でもいつもは仕事中でも必ず連絡くれるのに今回は全然連絡くれないから捕まっちゃったんじゃないかって心配だったんだけど」
「仕事、ですか…?」

ゴウはシンと同じ時期に孤児院で一緒に過ごした仲間だ。
18歳になって自立してからも頻繁に連絡を取り合っている仲ではあるけれど、社会人である彼と違ってシンはまだ学生だ。仕事という言葉はどういう意味だろう。
家庭教師のアルバイトをしていることは知っているだろうが、それとマヤが言う『仕事』とは少し違うような気がする。
第一任務とか仕事とかよくわからない。
表情に出ていたのだろう、マヤの顔色が変わっていく。

「シン兄さん…どうしたの?」
「どう、とは?」
「何か変だよ。記憶喪失?」
「…あいにく忘れているものはないと思うのですが」

真剣な顔で言われても、シンの中で記憶が欠けているところは1つもない。
そう言うのだがマヤは納得していないらしく、不安そうな顔をしている。
いつも笑顔でいる印象が強いマヤにこんな表情をさせてしまうのは申し訳ないと思うのだが、だが思い当たることが1つもないのだから仕方ない。

「私はどこも悪くないですし、今までと変わっていないつもりですよ。それとも、マヤから見て私は以前と何か変わってしまっていますか?」
「…ううん」

ふるふると首を振るマヤの頭を優しく撫でる。
どうしてマヤが置いていかれた子供のような顔をしているのかは分からないが、それでも可愛がっていた弟分にそんな哀しい表情をさせているのが自分だという自覚があるためシンは安心させるように抱きしめた。
子供の頃からマヤはシンにこうして抱きしめられるのが好きだ。
何となく安心するのだと言う。
シンにはよくわからないが人肌は精神を安定させるから確かに有効なのだろう。
傍から見ていると男同士なので不思議な光景であることに間違いはないだろうが。
シンが自覚している以上、戻ってきた彼にとってもそれは同様だったらしい。

「シン?」

普段よりも硬い声がシンを呼んだ。
振り返れば少しだけ硬い表情のユダ。それもそうだろう。
戻ってきたら連れが見知らぬ子供と抱き合っているのだから。しかも片方はどう見てもシンに甘えきった様子でいるし。

「その子は…」
「同じ孤児院で育った、私の弟のような子です。マヤ、そろそろ離れてください」
「えぇ〜」
「えぇ〜じゃなくて、失礼でしょう。ほら、あなたも挨拶してください」

おそらくマヤはシンの連れがユダだということに気づいていないのだろう。
無理やり引き剥がされたマヤは最初こそ不満そうな顔をしていたが、ユダの姿を認めて目を見開いた。

「ユダ…さん?」

ぽかんと口を開けるマヤを見てユダが苦笑する。
これが一般的な反応だし実際シンも初対面の時には凍りついたのだが、どうやらユダは自分がどれだけかけがえのない人物であるかの自覚が足りないらしい。
親しく語りかけるユダにさすがのマヤですら硬直していたが、元々人懐こいマヤだ。すぐに打ち解けたらしい。
しばらく会話をしていたのだが、そろそろ帰ってこいとルカから電話が来てしまった以上戻らないといけない。
公務がないとは言ってもユダのスケジュールは相当過密だ。緊急の要件が入ることも珍しくない。

「じゃあ、またね。シン兄さん、ユダさん」
「えぇ、また」
「あぁ」

ユダに支えられるように歩いていくシンの後ろ姿を見送る。
当然のようにユダの傍らを歩くシンの姿は、彼を見慣れたマヤの目から見ても嬉しそうだ。
姿が完全に見えなくなって、マヤも踵を返す。

「どういうことさ、あれ…」

呟く声は、とても低い。


  • 09.05.01