シンは国立の大学に通う学生だ。
性格は少々人見知りの傾向はあるものの、温厚で友人も多い。
趣味は読書とハープで、独学で学んだハープは本人曰く手慰みだと言っているけれど、その指から紡がれる音は周囲の心を優しく癒してくれると評価は高い。
読書量は相当なもので、学内でシンを探す時は図書館へ行けば会えると言われるほど。
成績は常にトップクラス。苦手な科目は特になく、強いて言えば運動はあまり得意ではないらしい。
プライベートでは孤児院へ通い子供達の相手をよくしているらしく、最低でも週に1度は顔を見せている。
また、貧困街のためのボランティアにも率先して行っていて、およそシンのことを悪く言う人物はいない。
一見するとしっかりしているように見えるけれど、彼を知る友人達はシンを評する時に決まって同じ言葉を口にした。
曰く、
『あいつ、かなりドジだから』
◇◆◇ ◇◆◇
知人が揃って口にするほど、シンは周囲からそう見られているのだろう。
本人は否定するが、残念ながらユダとルカも同意見だ。
ユダの襲撃現場にうっかり直面してしまい巻き添えを受けて怪我をしたところまでは不慮の事故だとしよう。
だが目が覚めてから3日、シンの行動を見れば友人達の言葉は最もだと言わざるを得ない。
先ず、ユダの素性を知ったシンは、恐縮しきって狭いベッドの上に慌てて起き上がろうとしてバランスを崩し、危うく転倒しそうになった。
咄嗟にユダに支えられて事なきを得たものの、その際に左足の傷が開き再度縫い直す羽目になった。
暇つぶしにと本を差し入れれば寝食を忘れて没頭し、飲み物を手渡せばうっかり零す始末。
受け答えはしっかりしているからそのギャップはあまりにも面白い。
どこか幼いと感じた印象はあながち間違っていないようだ。
そんなシンが退院したいと言うのだから、当然聞き入れられるはずはなかった。
シンは1人暮らしだ。
しかも料理は苦手で自炊をしたことがないらしい。
足の怪我は完治するには最低でも1月はかかるし、いくら生活費の保証はすると言っても、自炊のできない怪我人を1人暮らしのアパートへ帰すわけにはいかなかった。
シンの部屋は5階にある。
古い造りのアパートメントは歴史を感じさせる古き良き建物ではあるが、当然のことながらエレベーターはついていない。
怪我をした足で5階への上り下りが容易に出来るとも思えないし、わずかな間でもシンが他人を頼ったりしないことが十分に窺えてしまった以上、ユダの取る行動は1つしかなかった。
恐れ多いと固辞するシンの言葉などどこ吹く風で、ユダはシンを自宅に連れ帰ったのだ。
ユダの生活は華美ではないが、さすがに元公子ということもあって住んでいる屋敷の規模も質もシンのそれとは桁違いだ。
シンのためにと用意されたのは3階にある客間の1つだったが、南向きのそこは屋敷の中でも最上なのだろうと分かる。
部屋は広く天上は高い。
部屋の一角には怪我のせいで動くことも儘ならないシンのために用意されたのだとわかる多くの書物。
ベッドの傍に配置されたそれはシンの負担を少しでも減らそうという配慮に他ならない。
「隣は俺の部屋だ。生憎昼間は留守にしていることが多いが、夜ならば大抵戻っている。使用人の数は少ないのだが、何か不都合があれば俺でもルカでも遠慮なく声をかけてくれ」
「いいえ、充分です。ここまでしていただくことすら申し訳ないのに…」
「俺のせいで怪我をしたのだ。このくらいはさせてくれ」
「…ありがとうございます」
未だに取れない額の包帯へと手をやり悲痛な表情を浮かべるユダを見ると辞退するのも躊躇われ、シンは申し訳なく思いつつも頷いた。
ユダが部屋を出て行くと、ベッドに腰を下ろした。
柔らかい感触はやはりそれが極上だとすぐにわかる。
松葉杖をベッドサイドに置いて、シンは安堵したように息をついた。
どうにもまだ松葉杖というものに慣れない。
だがそう言おうものなら間違いなく車椅子を用意されてしまうだろう。
それだけは何としても避けたかった。
事実部屋の隅にはしっかりと車椅子が準備されてある。
怪我は片足。しかもひびが入っているとは言っても骨折しているわけではないのだから、あまり重傷人扱いされたくない。
「…どうしましょうね」
学校へは休学届が出された。
勿論1ヶ月弱ほどだが、単位は足りているから留年の心配がないことが唯一の救いだ。
奨学金で学校に通っているから、万が一にも留年だけはできないのだ。
多分ユダはそこまで調べてあるのだろう。
学費も心配しなくていいと言われたということは、そういうことだろう。
だが、そこまでしてもらう理由はシンにはない。
本当ならばユダの屋敷に厄介になることすら申し訳ないのだが、どうしても断ることができないのは、この屋敷に連れて来られた時から分かっているのだ。
あの場所に居合わせてしまったのはシンのミスであり、ユダもまた被害者なのだからという理由で入院費や慰謝料も固辞したのだが、結果は押し切られる形で受け取らされた。
それでもどうしても慰謝料だけは受け取らなかったのだが、それならばせめて傷が癒えるまで面倒を見させてくれと言われてしまえば、シンには断りきることができなかった。
自分などにそこまで気を配らせてしまうのが申し訳ないと思う。
でも、世話をさせてくれと言われて嬉しかったのも事実。
何しろユダは国民にとって英雄のような存在だ。
勿論国の実権は大公が握っているし、国主も大公だ。
ユダは確かに王位継承権を放棄しているけれど、国民のために尽力してくれる彼は正に王たる器だと思っていた。
自分とはあまりにも違う存在に憧れを抱いていたのも事実だから、その彼と1つ屋根の下で暮らせるということはまさに夢のような話だった。
嬉しいと思わないはずがない。
ただ、本当に申し訳ないだけだ。
ユダは自分の責任だと思い込んでいるが、シンが怪我をしたのはシン自身の不注意の結果だ。
あの場所は大通りから離れているし民家も少ない。
街灯もほとんどないに等しくて、夜になれば人気もないことから治安もよくないのはシン自身重々承知していたのだ。
それでもどうしてもあの時間にあの場所を通る必要があったのだ。
(必要…?)
自分で考えて、その理由にシンはふと首を傾げる。
必要があった。それは確かにその通りだ。
シンは毎週決まって孤児院を訪れる。
その際にあの道を近道として利用するのも珍しくない。
だがそれは昼間に限ってのことだ。
夜は治安が悪いし足場も悪い。
好んであの道を通らなくても、少々遠回りにはなるが表通りから帰れば安全だと知っていたはずだ。
実際普段はそうして表通りから帰っていたのだから。
でも、あの日だけは違っていた。
何かに導かれるように裏道を選び、そしてあの襲撃に遭遇した。
まるでそうしなければいけないかのように、シンはあの場所へ赴いたのだ。
どうしてだろう。
考えてもわからないそれにシンは首を傾げる。
記憶が抜け落ちているのだろうか。
「理由…」
知らず思考の波に任せようとしていたところを、ノックの音が現実へと引き戻した。
開いた先にいるのは、先程部屋を出て行ったユダ。
「シン、もし体調が悪くないようならリビングでお茶でもどうだろうか?」
「あ、はい。いただきます」
誘いを受けて松葉杖を手に立ち上がったシンの頭に、先程の疑問は綺麗に消えていた。
- 09.03.23