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Amazing Grace 05


幸いなことに、このホテルに入っている洋菓子店はレイのお気に入りの店だ。
親会社が乳製品の専門店であるために、生クリームやバターの味が絶品なのだとレイが絶賛している。
実は男ばかりの8人暮らしだが、その内の大多数が甘味好きである。
特にレイとマヤは甘味中毒と言っても良いくらいに甘いものが好きだ。
1日に1度は必ず食べている。
シンはそこまでではないが、それでも2人に付き合えるくらいには苦手ではない。
ゴウもああ見えてチーズケーキには目がないし、キラもルカもしつこくない甘さのものなら大歓迎である。
どちらかと言えば苦手なのはユダだろうか。
それでも彼は洋酒の入ったケーキや甘さ控えめのフルーツタルトなどは良く食べているから、決して苦手というわけではない。
そんなわけで手土産と称してケーキを人数分購入することにしたのだが、シンは自分が女装していることを思い切り失念していた。
突然女神のように美しい女性がいきなり来店してきたのだから、店にいた人達は驚いた。
元々一流ホテルの中にある店舗である。
客層とてそれなりの人が来るものだが、その中でも彼女は桁違いだった。
見るからに深窓の令嬢、しかも仕草の1つ1つが優雅で品がある。
そんな美女が執事らしい若い青年に、彼にはこれがいいとかこっちも捨てがたいとか笑顔で話しているし、聞いている青年もどことなく嬉しそうに、いやあの人ならレモンのムースでもいいんじゃないかなんて親しそうに話しているのだから、店員としては眼福というか目の保養というか、とにかく緊張してまともな接客ができるかどうか不安になるほどだ。
しかもこの美女、笑うととんでもなく可愛らしいのだ。
見た目は清楚な美女なのに笑うと可愛いなんて。
なんて奇跡。神様ありがとう。
外見こそ女性であるが、中身は間違いなくシンである。
先ほどのシルヴァという人格は既に削除済だ。

「ユダも喜んでくれるといいのですけど」

会計を済ませて店を去る間際に美女が呟いた声を店員は聞き逃さなかった。

ユダって言ったよユダって。
まさか大公様のこと?
うん、でも彼女ならお似合いかも。
そういえばさっきルカって言ってたけど、それってルカ公子のことかしら。
きっとそうだよ。うわぁ、こんなVIP初めて見ちゃった。どんな関係なんだろ。

なんて会話が交わされていることも珍しく気づいていないシンだったが、この時の発言が後にとんでもない事態に発展するなんて、シンはともかくキラでさえ気づかなかった。







   ◇◆◇   ◇◆◇







「……」

車を用意したからと言われてエントランスへやってくれば、確かにそこに車はあった。
そして運転手もいた。
そうか先ほどからエントランスがざわざわと五月蠅かったのはこれが原因かなんて思ってしまったシンは、一瞬だけ現実逃避してしまっていた。
一瞬で済んだのは、シンの登場に件の運転手が気づいたからである。

「やあ、レディ」

低く艶のある声と輝かしい笑顔に、周囲がざわりとどよめいた。
国民のほとんどが彼の顔を知っているとは言っても、それはあくまでも公の姿だ。
親しい人のみに見せる笑顔も、甘く艶のある声も、そのほとんどを彼らは知らない。
勿論抗体のある人物もこの場にはいる。シンとキラだ。
公私共に親しくしている2人だからこそ、その声の奥に潜む怒気に勿論気づいている。
逃げたいと思うが逃げることができない。
硬直する2人の前に、運転手――ユダは長い脚でゆっくりと近づいてくる。
そんな姿も絵になるが、気分はすっかり蛇に睨まれた蛙である。逃げることは許されない。

「キ、キラ…」

救いを求めるようにケーキを持って背後に控えるキラに声をかける。
十中八九ユダを呼んだのはキラだ。
車を用意したと言ったではないか。
だがそんなシンにキラは一歩下がって小さく首を振る。

「ごめん、シンさん。…俺も命が惜しいんだ」

そこまで?
思わず言いかけた台詞は、目の前に到着したユダによって封印された。

「帰ってくるのが遅かったから迎えに来たんだ」
「あ…ありがとう、ございます…」
「愛しい人を迎えに来るのは、男として当然のことだろう」

その時の周囲の衝撃をどう表現すればいいだろうか。
とりあえずこの場にマスコミの類がいなかったことに感謝。
携帯カメラのシャッター音がうるさいが、そんなことすら気にならない程度にはシンは驚いていた。
最早驚きすぎて何に驚けばいいのかわからないくらいだ。
ユダはちらりとキラへ視線を向ける。
びくん、と大きく身体が震えたのは見間違いではない。

「ほう、ケーキか」
「はい。レディが皆様への土産にと。公にはレモンのムースをご用意しました」
「あぁ、いいな。この店のムースは好きなんだ」
「それはよろしゅうございました」

見事なまでに執事モードのキラが答える。
あれ、これって打ち合わせでもしていたのとか思わなくもないが、とりあえずシンが問いかけられる空気ではない。色々な意味で。

「では、君はこのまま屋敷に戻って彼らにそれを渡してやってくれ。私はレディと少しドライブしてから帰ることにする」
「かしこまりました」
「あ、あの…ユダ…」
「さあ、レディ。私に君の時間を少しくれないだろうか」

シンの右手を取り、その手の甲に恭しく口づけをする。
きゃーという声が響いたのはもうどこからやらわからないほどだ。
こくん、と頷いてしまったのは条件反射だ。
ユダの甘い言葉にNOと言える人間がいたら連れてきてほしい。
先程の男とは偉い違いである。比べるのもおこがましい。
いい子だと耳元で囁かれてシンの腰が砕ける。
それを支えるように腰に手を回したユダは、まるでギャラリーなどいないかのような態度である。
だが、ユダ様おめでとうございますーなんて声に笑顔で手を振って応えているのだから、彼はしっかりと確信犯だった。
目の前の車に乗り込んだ2人がどこに消えていくかなんて誰も言わない。
2人がどんな関係かなんて、聞かなくても十分に分かる一幕だった。
そして興味の対象は勿論1人残った執事に向けられたのだが、賢明な執事ことキラは2人に視線が向いている間にさっさと裏口から姿を消している。
そのため彼らが持っていたケーキの箱から、彼らが何を買ったのかと問い詰める客が大量に店に押しかけたのだが、それはユダにとってもシンにとっても、ついでにキラにとっても予想外のことである。


  • 11.02.19