ぐい、と手を引かれ、気が付いたらシンは見知らぬ部屋に押し込まれていた。
乱暴な動作で背を押されそのまま抵抗できずにゆったりとしたソファに押し倒される。
上空から見下ろす表情は醜く、行動の愚かさも相まって随分と余裕がなさそうだ。
「伯爵…」
「貴女がいけないんですよ、銀のレディ」
咎める視線を向ければ、却ってきたのはそんなお決まりの台詞。
内心で呆れながらも怯えた深窓の令嬢の如き表情を浮かべることができたシンは、今、紛れもなく女優である。
ソファに押し付けられた腕を押さえつける力は強く、彼がそれなりに筋力があることを証明しているが、残念ながらシンには通用しない。
「私を選んではくださいませんか。私なら、貴女には何不自由ない暮らしを用意することができます」
「ご冗談を。奥様のいる方と恋に落ちるほど愚かな女ではありません」
シンでなくともこの言葉に頷く女性はいないだろう。
どこまでご都合主義なのか。
それともこうやって何度も女性を口説いていたのだろうか。
彼のことだからそれもあり得る。
「とにかく、お離しください。このような場面、他の方に見られたら誤解されてしまいます」
「誤解…良いではないですか。事実にしてしまえば良いだけです」
「伯爵…」
「言ったでしょう。貴女が、いけないんですよ」
にやりと笑う姿に、先ほどまで見せていた紳士然とした態度は見られない。
成程これが彼の本質か。見るのも汚らわしい。
抵抗をなくしたシンをどう思ったのか、青年は満足したように笑った。
「そう。それでいい。大人しくしてくだされば、私の妻にして差し上げましょう」
「妻?」
言われた言葉の意味に流石にシンが目を見開いた。
彼は妻帯している。どうやってシンを――否、『シルヴァ』を妻にできるというのか。
「今の妻とは別れます。私はこの国で新たな家庭を築くのです。貴女と共に」
「奥様の持参金で事業を拡げておきながら、必要がなくなったら切り捨てるのですか」
「それが大人の付き合いというものですよ。安心してください。貴女は一生私が愛して差し上げます」
「結構です」
「そのようなことをおっしゃってもよいのですか? 私はいずれこの国の権力をすべて手に入れる男ですよ」
「…っ」
向けられる視線に、青年は鷹揚に頷いた。
銀のレディは聡明な女性だ。
彼女なら全てを言うまでもなく理解するだろうと思ったが、やはりそれは正解だったようだ。
だが、まだ足りない。
青年は彼女が驚愕し、そして彼に尊敬と親愛の視線を向けてくれることを望んでいるのだから。
「そう。今の大公はいずれ失脚するのですよ。我々富裕層の手によってね」
「そのようなこと、大公は認めないでしょう」
「今の大公など、我々は認めてませんよ」
その言葉にシンの柳眉がわずかに上がる。だが青年は気づかない。
「そもそも廃嫡された公子が大公になること自体がおかしいのです。彼が大公になれたのは国民の後押しあってのことだが、我々は残念ながら彼の独裁を許すわけにはいかないのです。遠くない未来、彼は失脚するでしょう。我々が認めないのだから当然ですよ」
「オリンポスの国主を決めるのは、オリンポスの国民です。貴方のような外国人移住者ではありません」
シンがそう言えば、青年は弾かれたように笑い出した。
「これは傑作だ。聡明なレディまでそんな世迷言をおっしゃるのですか。やはり貴女も若い。政治は国民が行うのではなく、一部の選ばれた人間が行うものですよ」
「…それが貴方だ、とでも」
「まさか」
青年はゆっくりと首を振る。
もう少しで目の前の女性は自分に落ちる。
権力と富は誰もが酔う媚薬だ。
この高潔な女性とて例外ではない。
そう思っていた。
だから彼女に伝える。
自分には大公などという地位に就かなくても、有り余るだけの権力があるのだと。
「私は金に興味はあるけど政治に興味はない。数日中にゼウス殿の庶子と称する者が現れる。彼は好色家でしたから、誰も疑わないでしょう。事実、今の大公も庶出ではありませんか。資質としては何の問題もない。そして、彼らを我々が支持する。それだけの話です」
「でも、国民がそれで納得するでしょうか。私が知るだけでも国民はユダ大公に大層心酔していらっしゃるように見えます」
「我らが認める王も、ユダ殿に負けず劣らず美しい人物ですよ。国民とて気に入るでしょう」
「大公は美貌だけで国を手にしたわけではありません」
「ですが美しいものは、それだけで人を魅了します。大公然り、貴女然り」
「…それで、謀叛を?」
「謀叛とは人聞きの悪い。我らは相応しい王を選んだまでのこ…」
気持ち良く話していたところに、不意に背後から首筋に冷たい何かを押し付けられた感触があり、青年は言葉を途切れさせた。
「その方から離れろ」
低い声だった。
反論など許さないという声に、青年の心が冷水に打たれたかのように冷えていく。
青年は助けを求めるようにシンへと視線を向ける。
「レ…」
「よく、わかりました」
懇願であろう声を、シンは冷ややかな声で遮った。
不愉快になる言葉ばかりだ。
何も知らずただ己が国を動かすことができると勘違いしている男。
ユダの理想も信念も覚悟も何一つ知らず、同じ人間を用意できると言ってのけた男は、いかに地位があろうと見目が良かろうとシンの目には下賤の人間にしか見えない。
こんな男がユダの命を狙っているなんて。
彼の治世を否定するなんて。
シンは己の髪から髪飾りを引き抜く。
纏めてあった髪がはらりと頬にかかり、至近距離で見せられた凄絶な美しさに男がゴクリと唾を飲んだ。
飾りの宝石を動かせば、水仙から細い針が生える仕組みのそれは、この姿で隠し持っているシンの武器だ。
そのままそれを男の首筋に当てる。
冷ややかなそれに何をされているかわからないまでも、不穏な空気を感じ取ったのだろう。
男の顔が恐怖に歪んだ。
「動かないでください」
「ひっ!」
彼が自慢した権力も金も、今この状況で何の役にも立たないということがわかっただろうか。
シンの持つ、たった一本の武器を止めることができるのは、金でも権力でも、況してや美貌でもない。
ただひとえにユダのためだ。
「大公を侮辱する人は誰であれ許しません。サイラム伯爵その他25名、国家転覆の罪により捕縛させていただきます」
言葉と同時に背後からの刺激で男は床に沈んだ。
後ろに立つのはキラだ。
彼がシンを単独にさせるわけがない。
実は青年がシンを空き室に引きずり込んだ時からずっと傍にいたのだが、青年が気づかなかっただけだ。
シンは足元に彼が新たな君主として戴こうとしている人物が誰かまでは特定できなかったが、中枢にいるこの男を逮捕できれば突き止めるのも捕まえるのも容易いはず。
他の25名は既に捕縛済だ。
誰もが政治的に重要なポストにいる人物だったが、己の利益のためだけに他者を排斥しようとする人物など、ユダの望む国家には必要ない。
彼らはそれぞれ相応しい末路を辿るだろう。
逃げ道など誰が与えるものか。
彼の進む道を脅かす者など、シンが決して許しはしない。
シンはキラへと視線を動かす。
彼の手に握られているのは小さなボイスレコーダー。
証拠を出せなんて矮小な言い訳すら与えるつもりはない。
「さて、後は警察に任せて、私たちは帰りましょう」
お土産にケーキでも買って帰りましょうか。
頬に落ちた髪をかきあげて、シンはそう言ってふわりとキラへ笑いかける。
それはキラが見慣れた、そして大好きな『シン』の笑顔だった。
- 11.02.18