「お久しぶりです、銀のレディ」
そう声をかけてきたのは、若き実業家として世界的に名を馳せている青年だ。
確か妻の実家が中東の石油相だっただろうか。
妻の持参金を元手に事業を興して大成功を収めたのは、業界では有名な話だ。
有り余る金と資産家の娘を射止めた美貌を武器に、彼が単身オリンポスへ移住したのは数年前。
シンが「シルヴァ」として社交界に現れる前の年のことだったと記憶している。
現在では地元の企業と提携を結んで事業を拡大しており、そのためかゼウス失脚後もオリンポスを去ることなくこの国に留まっている数少ない海外移住者だ。
ゼウス失脚後に姿を消した実業家は多い。
彼らのほとんどは裏でマフィアと手を結んでいる者がほとんどで、そのせいでユダの政権下では仕事が立ち行かなくなってしまったからだ。
だから彼のように大手を振って仕事を続けられる者は珍しい。
本人はそれだけ自分の仕事が誠実だったと言うだろうが、シンは彼が言う『仕事』の実態を知っている。
結婚の過程を見るだけでも、彼は十分な野心家だ。
最初から狙っていたのはオリンポスでの甘い蜜であり、それを潰したユダに対して表向きは称賛しているものの、内心では良い印象を抱いていない。
彼が今もこの国で仕事ができるのは、未だ処分されていない政治家との癒着があるからだ。
ついでだからそちらも処理してしまおうとはシンの心の声だ。
そのような感情など欠片も見せずにシンは青年に笑顔を向ける。
「ごきげんよう。サイラム伯爵」
少し高めの声を出せば、それだけで女性にしか見えない。
これだけの極上の美貌だ。多少声が低かろうと男だと思う人物などいないだろうが。
伯爵の位はオリンポスで与えられたものではない。
彼の事業が成功した時に、母国において金で買った称号だ。
誇らしげに爵位を語った時の表情をシンは忘れないだろう。
酷く、醜かった。
「あぁ、そのような他人行儀の呼び方をなさらないでください。どうぞ、ファーストネームで、エヴァンと」
「まぁ、伯爵。そのようなことは、私にはとても恐れ多いことですわ」
くすくすと笑うシンは、笑顔一つであっさりと彼の懇願を切り捨てた。
彼女がファーストネームを呼ぶ人物はいない。
呼べばそれだけで特別な人物なのだと本人及び周囲が誤解するとわかっていることを、どうしてできるだろうか。
「残念ですね。もう少し貴女と親しくなりたいと思っているのですが」
「光栄です」
野心家な男は女好きというセオリーでもあるのか、エヴァンと名乗った青年は残念だと言いながらもシンの腰に手を伸ばそうとしている。
それを身体を軽くひねることでかわし、シンは青年から少しだけ距離を置いた。
だが離れることはしない。
ターゲットが自分から近づいてきたのだ。
わざわざ逃がす必要もないだろう。
「それにしても、しばらく姿を見せなかったのは、何か理由があってのことなのですか」
「理由ならありますわ。言う必要があるかは、わかりませんけど」
「相変わらずガードが固いですね」
「そうでしょうか」
キラが運んできたグラスに口をつける。
アルコールに見えるけれど、中身はジュースだ。
シンはアルコールに強くない。
こくり、と嚥下する喉に青年の視線が動く。
シンは自覚していないが、ユダに愛されているシンの身体からは以前には見られなかった匂い立つ色香があった。
極上の美貌が色香を伴って隣にいる。
それが野心家の男を刺激しないわけがない。
勿論シンは己の色香には気づいていないが、男の下心は手に取るようにわかる。
そうなるように仕向けたのだから。
シンが調べた結果、ユダの失脚を狙う一味の背後にいるのが、目の前の青年だった。
表立って動いていなかったから気づくのに時間がかかったが、ユダを狙う一味に資金と住処を提供していたのだ。
元からあまり良い噂の聞かない人物だったから、叩けば簡単に埃が出た。
彼が癒着していたのがゼウス政権の際に利権を貪っていた高官たち。
小金を貯めることにしか興味がなかったために未だ解任されていないが、彼らが解任もしくは辞任させられるのは時間の問題だ。
そうなれば彼はこの国で力を失う。
まっとうな事業を行っていれば特に慌てる必要などないが、彼はまっとうとは少々遠い位置で仕事をしていたため、共倒れになるのは間違いないだろう。
ガイが調べた結果でも、財産没収か国外追放が妥当だと出ている。
その前にユダを失脚して己の権力を確固たるものにしたいという魂胆だろうか。
小狡い頭脳は多少回るようだが、それではユダはおろか四聖獣にすら勝てない。
シンはグラスをテーブルに置き、青年の目を見てくすりと笑う。
甘く酔わせる眼差しは、恐らく男なら誰もが落ちるだろう。
「伯爵は、私の何を知りたいのですか?」
「すべてを」
「まあ」
予想通りの答えに、シンは小首を傾げて青年を見上げる。
コンタクトで色を変えた青灰色の瞳が青年に向けられ、深い色合いを持つ視線に青年が一瞬で絡め捕られた。
「私は他の女性のように、貴方の笑顔では落ちませんよ」
「知っています。金にも地位にも興味がないと」
「それでも、私を知りたいと?」
「勿論です。だからこそ貴女が良いのです」
高貴で高雅で、誰もが焦がれるけれど誰もが触れることの許されない高嶺の花。
それを求めるのは男としての本能だと、彼は熱い視線で告げる。
「そうですか」
嬉しそうに口元に笑みを浮かべたままゆっくりと伏せられた瞳に、青年は彼女が落ちたのだと思った。
そのまま己の胸に引き寄せようとして華奢な肩に手を触れようとした寸前で、シンはす、と身を引いた。
「レディ?」
「では、頑張ってください」
華のような笑みを浮かべて、シン――『シルヴァ』は人の輪の中に消えた。
残されたのは、勝手に盛り上がり勝手に放置された青年のみ。
己に自信のある男は無視されることに慣れていない。
シンはそれをわかっていて、敢えて相手の神経を逆撫でしたのだ。
「あの女…」
ぎり、と歯ぎしりした音はキラにまで届いた。
- 11.02.17