生まれた時から命が流れていく音を聞いていた。
とくん、とくん、と弱い鼓動は、シンにとって命の音ではなくカウントダウンだと思っていた。
動かない身体、苦しくなる呼吸。
そんな自分のせいで両親や友人がつらそうな顔をするのが、いつも申し訳なかった。
消えてしまいたいと願ったことは数知れず。
あの空の向こうへ行けば楽になれるのかと、病室の窓から見える青空に想いを馳せたことも一度や二度ではない。
それでも、自分を不幸だと思ったことはなかった。
家族に愛され友人に愛された自分はとても果報者なのだから。
転機になったのは何だったのか。
与えられた寿命を数年前に使い果たした自分は、多分、いつ死んでもおかしくないのだろうという自覚はあった。
僅か20年と少し。
ただ発作を起こさないために静かに過ごしていただけの日々に疑問を感じたのは何が原因だったのか覚えていない。
ただ、外の世界を知りたかった。
そんな自分勝手な理由で家を飛び出したのは、珍しく家族が外出していた僅かな時間だった。
シンが眠っていると思ったのだろう、過保護な家族や友人は決してシンを一人にしようとしなかったから、それは本当に珍しいことだったのだ。
財布を片手にタクシーに乗り、タイミング良くホームへ入ってきた電車に飛び乗った。
今思えば何て無謀なことをしたのだろう。
たまたま体調が良かったとはいえ、シンにとってはまさしく自殺行為以外の何ものでもなかったのに。
そうしてやってきた街は当然のことながらシンにとっては知らないことばかりで、寒さを凌ぐ理由で一軒の店に足を運び、そこで彼と出会ったのだ。
不思議な感覚だった。
重い身体、不自由な呼吸。
常にシンを苛んでいたものが、彼と一緒にいる時には一切邪魔にならないのだ。
それどころか血行が良くなったためか顔色も良く、少し動いただけで息切れしてしまう身体には、まるで羽でも生えているかのように軽かった。
これが同じ身体なのかと自分でも不思議に思うほど、彼といる時の自分は「普通」だったのだ。
まるで夢のような時間。
彼と一緒にいる時だけ、シンは「病弱な自分」ではなく「普通の青年」になれるのだ。
どんな魔法だったのだろうと思うほどそれは顕著で、その証拠のように彼に逢わない日の身体は相変わらず重く、滞在しているホテルから出歩くことも難しいほどだった。
彼にとって自分は一時の遊びなのだろう。
それでも良かった。――否、むしろその方が良かった。
真実を知れば彼は去っていく。
誰が好きこのんで寿命の尽きている人間と付き合うだろうか。
ただ、一時でも彼の中に自分という人間がいることを知ってもらえれば、シンはそれだけで良かった。
彼と出会い、ほんの僅かな時間ではあっても一緒に過ごすことができた。
それだけでシンは十分。
元々何も望めない身体だったのだから、それでも十分すぎるほどだ。
命の期限が切れてから5年以上。
我ながらよく保ってくれたものだと思う。
でもそろそろこの身体には限界が来ているようで、一日のほとんどの時間をベッドで過ごすことが珍しくないようになってしまった。
それでも彼からの誘いがあれば身体は普通に動けるのだから不思議なものだ。
生きながらえることよりも、少しでも長く彼と一緒にいることを願っている自分の身体は本当に正直で、だからこそもうやめようと思った。
この関係を続けていくのは、あと少しならば可能だろう。
だがそうすればいずれ彼に自分の体調が知られてしまう危険があった。
それだけは避けたかったのだ。
こんな病に冒され明日をも知れない自分は知られたくない。
だからこそ、別れを選んだ。
二度と逢わないという意思を込めて。
ただ、とシンは思う。
もう一度だけ、彼に触れたかった。
◇◆◇ ◇◆◇
――…
シンの見る夢の中では、彼はいつも穏やかに微笑んでいた。
硬質な顔立ちがふわりと柔らかくなごむのを見るのが大好きだった。
熱い眼差しが自分に注がれるのも、きつく抱きしめられるのも嬉しくて。
彼から与えられたものは全て覚えている。
大切な大切な、何にも代え難いほど素晴らしい思い出だ。
だから、こんな声は知らない。
――シン
こんな、泣きそうな切ない声なんて。
別れの日でさえ、彼は自分をこんなふうに呼ばなかった。
まるで迷子になった子供のような不安を抱えた声。
聞いたことないのに、それでも彼の声だと思ったのはどうしてだろう。
彼は今頃、他に素敵な相手を見つけて幸せに過ごしているはずなのに。
あぁ、でも、できることなら最期にもう一度だけ顔を見ることはできないだろうか。
話をしたいわけではない。
どこか遠くからでもいい。もう一度彼の姿を目に焼き付けておきたい。
(ユダ…)
大切な名前。
たった二文字なのに、思い出すだけで胸が温かくなる。
生きていてよかったと心の底から思えるのは、こうして彼のことを思い出した時だ。
何もできない自分、今までの人生で何の価値も見いだせなかった自分だが、彼を少しでも癒すことができたのなら、それだけで生きてきた意味があると思えるのだ。
後はただ、その想いを胸に静かに眠りにつけばいい。
それだけだったはずなのに、微睡に入ろうとするシンを呼び起こそうとする声は消えない。
家族の声ではない。友人の声でも。
彼らの声は深い眠りに入ろうとするシンにはもはや届いていない。
ならば誰だろう。
――シン!
また、聞こえた。
今度ははっきりと。
シンを呼び起こすように強く、拒否すら許さないという強い意思が込められた声。
この声を、シンは知っている。
(呼んでいる…)
誰が、なんてどうして思ったのだろう。
忘れるはずないのに。
声に導かれるまま、シンはゆっくりと目を開ける。
二度と開かないと思われた重い瞼は、ほら、やはりこんなに簡単に開くのだ。
- 11.06.02