目が覚めた時、シンは自分がまだ夢の中にいるのだと錯覚した。
目の前にいるユダの眦には僅かだが涙が浮かんでいた。
悲痛な声で自分を呼ぶユダに、シンはふわりと微笑みかける。
「どうしたのです、ユダ」
彼に泣き顔は似合わない。
いつでも自信に満ちた表情が、彼には一番似合うのだ。
だから傷ついた姿をたとえ夢でも見たくなくて、シンは己の手でユダの頬を優しく撫でる。
「哀しいことがあったのですか?」
そう訊ねるシンにユダの瞳が瞠られる。
シンの顔色は相変わらず悪いが、浮かぶ表情は穏やかで、頬は先ほどより赤みが差しているようにも見える。
「シ、ン…」
「はい?」
「ここに、いるんだな」
「えぇ。勿論です」
何故ユダがそんな表情をするかわからないまま、シンは頷いた。
おずおずと差し出された手が頬に触れ、そのぬくもりにうっとりと目を閉じたシンは、しばらくして何かがおかしいということにようやく気が付いた。
最初はどこかのホテルにいるのかと思った。
ユダとの逢瀬の後、眠りに落ちたシンが見るのは毎回ユダの顔だったから、今回もそうだと勘違いしたのだ。
ゆっくりと視線を彷徨わせて見れば、そこはシンが自室よりも長い時間を過ごした病室で。
布団にしまわれたままの片腕には点滴、そして身体のあちこちに繋がれているのは心電図のコード。
そうして、傍らにはユダの姿。
夢と現が交錯しているのだろうか。
どうしてユダがここにいるのだろう。
不思議そうに瞬きをするシンに、だがユダは答えない。
頬に、髪に、唇にと指を辿らせている姿は、まるでシンの存在を確かめているかのようだ。
ややしてユダの青い瞳がシンの黄金の瞳を捕らえる。
悲壮な輝きは姿を消し、代わって瞳に宿っているのは確固たる強い意思。
シンが大好きな、力強い視線だ。
最後にもう一度、この瞳が見たかった。
そう言うとユダが苦笑して首を振った。
「最後になどしないさ」
甘い吐息と共に囁かれた言葉は、シンの唇に消えた。
まるで触れているところから何かが流れてくるような感覚。
唇に触れる熱や愛しそうに頬に触れる手のひらのぬくもりがとても嬉しくて、シンは無意識にもっととねだるようにその熱にすり寄った。
触れるだけの口づけは次第に激しさを増し、シンの負担にならないように、だがシンの求めるままに深くお互いを絡めていく。
小さく漏れる吐息が熱を煽り、縋りついてくる腕がユダの胸を愛しさで満たす。
すっかり細くなってしまった身体はそれまで以上にユダの腕に容易に収まり、ユダはシンを逃がさないようにしっかりと抱きしめた。
とくん、とくん、と感じるのはシンの鼓動で、若干速く感じるのは先ほどの口づけが原因だろう。
苦しくないだろうかと腕の中のシンを見るが、シンはうっとりとユダの胸に凭れたまま。
僅かに上気した頬が何とも言えず色っぽく劣情が刺激されるが、流石にこれ以上進むわけにはいかない。
ユダはシンのベッドに腰を掛けたままシンを抱きしめている。
シンのベッドは病院の備品だが、特別室ということでその大きさも普通のパイプベッドより若干大きめだ。
生まれてから病室と自宅を行ったり来たりのシンのためにと、家族がシンのために用意したのは単なる個室ではなく特別室と呼ばれる豪華な部屋だ。
一般病棟とは格段に違う病室は、一見すると普通の部屋に見える。
病室から碌に動くことのできないシンのために、少しでも居心地のよい部屋を選んだのだろう。
当然のことながら設備が変われば料金も変わる。
特別室の料金は一般病室の十倍以上になる場合があると聞いたことがある。
それを厭わないというだけでも、シンがどれだけ家族に愛されているかを証明している。
シンは沢山の人から愛されているのだ。
勿論自分もその一人だが、その中でも特別なのだと自惚れてもいいだろうか。
「シン」
「はい?」
もしかして眠ってしまったのだろうかと思うほど静かなシンに声をかければ、シンはゆっくりと視線を上げて返事をした。
ユダの視線を受けてうっすらと頬を染めるそんな仕草すら愛しくて仕方がない。
「お前の手を離したこと、ずっと後悔していた」
シンの表情が曇る。
シンが選んだことだが、あの別れはお互いに大きな痛みを強いることとなった。
勿論責めるつもりはない。
「俺は不実な男だから、シンに愛想を尽かされたのだと思った。そしてプライドが邪魔をして引き止めることすらできなかった。…情けないな」
「そんな…あれは」
「シンに悪気がなかったことはわかっている。ただ、あの日、俺は自分の愚かさを嫌というほど痛感したんだ。だから、ずっとシンに会いたかった」
「ユダ…」
会いたかった。
会って謝って、そうしてもう一度やり直せたらと、そう思って。
それなのに拒絶されるのが怖くて探すこともできなくて。
「我ながらこんなに情けないとは思わなかった」
自嘲と共に吐息が漏れる。
本当に愚かだ。
だが、まだ遅くはなかった。それだけが救い。
「シン」
緩い拘束からシンを解放して、黄金の瞳を見据える。
ゆっくりと瞬きをするシンの様子は以前と何一つ変わらない。
ユダの傍にいるのが当然というように、無垢な信頼と無償の愛情を注いでくれる。
ユダと出会って健康を手に入れたシン。
シンと出会って愛を手に入れたユダ。
普通ならば一生出会う機会すらなかった2人が、偶然が重なって出会い、そしてかけがえのない存在となった。本当に奇跡のような出会いだ。
だからこそ、これを一時のものにしたくはなかった。
「愛しているよ」
こうして愛を囁くのは、シンにだけだ。
多くの夜を共にしてきた相手には、どれだけ強請られても告げたことなどなかった。
必要だったのは一時の快楽と、その場を楽しめる雰囲気だけ。
そこに愛情という重いものは不必要だったからだ。
だが、今思い返してみれば、シンにだけは何度となく囁いていた。
行為の最中も、終わった後も、眠っているシンにもひっそりと告げていたことがあった気がする。
そうと気づいたのは、先程の言葉があまりにも自然に口から出ていたからだ。
どれほど強請られても、たとえ戯れでも言えなかった言葉なのに、シンには何度も告げていたのだという事実が可笑しくて仕方ない。
最初から、心はシンだけを求めていたのだ。
愚かな自分はそれに気づかなかっただけで。
答えは最初から出ていたというのに。
「シンが愛しくて仕方ない。愛しくて愛しくて、誰にも渡したくないほどだ」
「ユ…ユダ…」
耳元で囁かれる熱烈な告白に、シンは真っ赤になってどうしていいかわからないようだ。
それでもぎゅっと自分の腕を掴んでくる姿はシンの気持ちを表現していて、それだけで嬉しくなる。
「だから、一生、俺の隣にいてくれないか」
シンのすべてを知って、それでも発した言葉は明確な意味がある。
過去は取り戻せない。
だが未来はこれから築いていけるのだ。
シンがユダのために生まれてきたと言うのなら、これから先も一緒に生きていくのは当然のこと。
ユダは二度とシンの手を離すつもりはない。
それを阻むものは容赦しない。
たとえそれが運命だろうと。
自分からシンを奪うのが死神であれば尚のこと、自分以外の男にシンを渡すわけにはいかない。
そう言えばシンは驚いたように目を瞬き、そして嬉しそうに笑う。
「そのようなことをしなくても」
くすくすと笑う姿は幸福感に満ちていて。
ユダの言葉を受け入れてくれたのだと全身で伝えていた。
「私の全ては最初から貴方のものです」
そうしてシンは初めて自分から愛しい人へ口づけをした。
- 11.06.29