ドライブと呼ぶには少々長い距離を移動した車がようやく停止したのは、ある病院の前だった。
都心からは離れているが名医が揃っていると評判の病院で、名前ならユダですら聞いたことのある大病院である。
深夜と呼ぶに相応しい時刻、当然のことながら面会時間など終了しているが、救急指定を受けている病院だけに外来では時間外診察にやってきた患者の姿も見える。
患者や数名の横をすり抜け、レイは奥にある病棟へと足を進める。
そうしてやってきたのは特別室。
「ここから先は僕は遠慮します。貴方だけでどうぞ」
促された扉の先では静かな闇が広がっていて、ユダは一瞬だけ足を踏み入れるのを躊躇した。
生きている者の気配を感じないのだ。
ここにシンがいると言われても俄かには信じることができないほど、室内の気配は希薄だ。
だがこの期に及んでレイが自分を謀る必要はない。
足を踏み入れれば、背後で扉が静かに閉まる。
非常口の淡い光が室内を照らす。
10畳ほどの病室。
手前には簡易な応接セットと冷蔵庫や大型テレビ。
そして窓際には、一台のベッド。
「…っ!」
窓から漏れる月光が、そこで眠る人物をほのかに照らしている。
血の気の通っていない頬、伏せたままの瞳。
呼吸しているかすらわからないその姿は、整った表情のせいか人形のようにユダには見えた。
「シ、ン…」
足元から血の気が引いていく。
名前を呼びたいのに、喉の奥に声が張り付いて言葉が出てこない。
細い腕に繋がっている点滴。
いくつものコードがシンと機械を繋ぎ、細く弱弱しい音が室内に響いている。
繊細な顔を半分覆うのは無機質な酸素マスクで。
何か一つでも欠けてしまえば途切れてしまうような細い灯によって、ようやくシンの命が繋ぎ止められているような、そんな錯覚を感じた。
こんなシンをユダは知らない。
ユダが知るシンは、決して派手ではないが清廉な雰囲気に包まれて穏やかに微笑んでいる印象しかない。
どこまでも無垢で清楚で、何にも染まらない凄絶な「白」のイメージだったシン。
それなのに目の前にいるシンは、今まさに闇に飲み込まれそうに見えてユダは絶句する。
ようやくレイの涙も彼の意図も理解できた。
ユダが知るシンは確かに線が細いことは気になったものの特に病的なものには思えなかった。
逢瀬を重ねていた日々でもシンの体調が悪い様子は見えなかったし、実際苦しそうな様子など一度も見せたことはない。
当時のユダはそれほどシンを注意深く見ていたわけではないが、いくら何でも死の病に冒されているのならば気づかないはずはないと思う。
だが…。
自分は一体シンの何を見ていたのか。
僅か一週間でここまで悪化するほどの病気に何一つ気づかなかった自分が腹立たしい。
シンの鼓動を教える音が室内に響く。
この心電図が動きを止めた時にシンの命が消える。
それは到底信じたくないものだ。
ユダとの思い出を『幸せな夢』だと語ったとレイは言った。
大切すぎて手放す決断が付かず、結局ギリギリまでユダに甘えてしまったのだと。
だが、違う。
甘えていたのはユダの方だ。
等身大のままのユダを受け止めてくれるシンの居心地の良さに甘え、シンのことを何一つ理解しようとしていなかった。
決して誠実とは言えなかったユダ。
シンはそれを咎めなかった。
自分の都合で呼び出して時間を過ごし、そうして身体を重ねるだけの関係。
そんな関係だったのに、シンにとっては何にも代えがたいほど大切な思い出だと言われた時は、不覚にも涙が出そうになった。
無欲で純粋で、だからこそユダに真実を告げずに去って行ったシン。
あの別れの言葉はユダに己の存在を忘れてもらうためのものだったのだろう。
「他に好きな人ができた」と言われて、それでもシンを引き止めるユダではなかったはずだから。
そしてシンの想像通り、ユダはシンの手を離した。
シンへの愛情よりも自身のプライドを優先させたのだ。
その後の後悔は大きかったが。
「シン…」
眠るシンの傍らに跪き、点滴で繋がれていない手を取る。
心電図は規則正しく鼓動を伝えている。
だが、その意識は3日前から戻っていない。
眠るように意識を失ったシンは、ゆっくりと死に向かっているように見える。
満足だと、その証拠のように小さな幸せのみを胸に、たった一人で人生を終わらせるつもりなのだろうか。
家族や友人、そしてユダの気持ちなど置き去りにしたまま。
(…それは駄目だ)
そんな人生なんて、悲しすぎる。
生き方は人それぞれだ。
シンの人生はシンのものであり、そこにユダが介入する資格なんて端からないのかもしれないが、それでもユダはシンに人生を諦めてもらいたくない。
あんな不実な時間に満足してもらいたくないのだ。
ユダは震える指先をシンに伸ばす。
ひやりとした頬。
だが、肌理の細かい肌はあの時と何一つ変わっていなくて。
(目を開けてくれ、シン)
まだ赦されるなら、この胸に溢れる想いを余すところなく捧げよう。
その手を取り跪き、永遠の愛を彼に誓おう。
不実な想いとは比べものにならない程の愛をシンに。
だから――。
「俺を、置いて逝かないでくれ――」
- 11.05.23