シンから別れを切り出されてから1週間が経過した。
日々は何一つ変わりなく過ぎていき、街もいつもと同じ姿を見せている。
だがその中にシンの姿はない。
ユダの前だけに姿を現さないだけでなく、以前から好んでいたレストランも、出会った場所であるバーにも来ていないようだった。
元から深い付き合いをするつもりではなかったユダは、関係を持った相手の素性を訊ねることはなく、そのためシンがどこに住んで何をしているか知らない。
それを後悔したところで遅いし、仮に知っているとしても会いに行くのは躊躇われた。
あそこまできっぱりとふられたのだ。
どの面下げて会いに行けるだろうか。
シンとのことは過去のこと。
そう言い聞かせれば聞かせるほど、シンと過ごした濃密で穏やかな時間が脳裏に甦り、自分で思っている以上に未練を残している事実に思わず自嘲してしまう。
ユダは慣れた足取りで一軒のバーに足を向けた。
そこはユダが昔から馴染みにしている店で、シンと出会った場所でもあった。
大通りから一本外れた細い路地にひっそりとある店。
看板も外灯も、そうとわかっていなければ見落としてしまいそうな造りのそれは、知る人ぞ知る名店だった。
バーテンダーが1名と従業員が2人。
客席もカウンターに5人と4人掛けのテーブルが2つしかないこじんまりとしたものだ。
だが店員の質は高く、特にバーテンダーの腕は世界大会で優勝したことがあると噂されるほどで、ユダは偶然足を運んでから今日まで、週に1度は足を運んでいた。
その店にふらりと迷い込んできたのがシンだった。
明らかに場違いな様子は、「迷い込んできた」という表現がぴったりだと今でもユダは思っている。
おそらくバーになど入ったこともなかったのだろう。
きょろきょろと視線を彷徨わせてどうしようかと悩んでいる姿は、どこか幼くて可愛らしかった。
バーテンダーに勧められるままにカウンターに座り、ごく軽いカクテルを不思議そうに見ている姿は店に慣れていないというより外の世界に慣れていないように見えたものだ。
悩むようにカクテルを凝視し、意を決したように一口含み、そして子供のようにはにかんだ笑顔を浮かべた姿が可笑しくて、つい笑ってしまったのがシンとの出会いだった。
後になって聞けば、やはりこういう店に入ったことはなかったらしい。
品の良い外見、質の良い服。
そして何よりも洗練された物腰から、シンはおそらく上流階級の人間だろう。
自分のことは何一つ語らないシンだったが、ふとした仕草からそうとわかるほどシンの行動はすべてにおいて品があった。
穏やかで控えめで、傍にいると安心させる雰囲気は稀有なものだったから。
だからこそ気に入ったのだ。
そうして逢瀬を重ねて、お互い何も言わないし聞かないままだったが、心は通じ合っていると思っていた。
それが間違いであることは嫌というほど思い知らされたけれど。
(我ながら女々しいものだ)
ともすればすぐにシンとの思い出に浸ってしまうのは、それだけ大切な時間だったからだ。
だが、もう取り戻すことはできない。
それなら本命でも遊びでも新しい相手を探せば良いものだが、シンという最高の相手を知ってしまった以上そういう気にもなれない。
欲しいのはシンだけだ。
穏やかに微笑む姿も、ベッドの中で艶やかに乱れる姿も、シンを知ってしまえば他の相手では物足りない。
今更ながら不実だった己を責めるが、ではどうしたらいいか手立てがないのが現状だ。
少しでも素性を知っていれば会いに行くこともできるのだが、シンはユダが驚くほど己の痕跡を残していかなかったのだ。
広い世の中でたった一人を探すことがどれほど大変か、ユダとて知っている。
偶然に縋ろうと思い出の店に足を運んだところで、あのシンがのこのこと現れてくるとは思えなかった。
苦いため息をバーボンと共に喉の奥に流し込む。
空になったグラスの中で氷が硬質な音を立てる。
バーテンダーが空いたグラスを片づけ、そして何も言わなくても新たなグラスをユダの前に置くのは、ここ数日同じ行動なのだから当然だ。
薄暗い照明に照らされて琥珀に輝く液体を眺めるとでもなく見ていると、不意に隣に人の気配を感じた。
艶やかな美貌。
すらりとした身体と妖艶さを感じさせる美貌は、この店では見ない顔だ。
「お1人ですか?」
声から男性だとわかるが、シン以上に中性的な顔立ちの青年だ。
青年はユダの返事を聞くまでもなくユダの隣に腰を下ろす。
断られると思っていない態度は、なるほど彼の外見からすれば当然かもしれない。
酒の席で女性と見まごう美形に声をかけられて悪い気分になる男はいないだろう。
だが今のユダは違う。
共に飲みたい相手は1人だけ。この青年ではない。
「悪いが1人で飲むのが好きなんだ」
「おや、それは残念」
ユダの返答に一瞬目を瞠り、次いでくすくすと笑う。
蠱惑的な仕草。嫌いではないが、興味はない。
どうやら相手は席を移動するつもりはないらしい。
興醒めだと席を立ったユダの背中に、青年が声をかけてきた。
「空色の髪の青年をご存じですか」
「?!」
振り向いたその先にある表情は、つい先ほどまで見せていたものではなかった。
男を誘うような仕草は姿を消し、秀麗な顔立ちに浮かぶのは好奇というより値踏みするような厳しい視線。
「やはり貴方が…」
「シンを知っているのか?!」
額に手を当て小さく嘆息した青年にユダが問いかける。
素性も何もかも不明なシン。
過去のことと振り払うには、心は既に捕われていて。
「教えてほしい。シンはどこに」
「シンに…会いたいのですか?」
「当然だ」
みっともないと言われても構わない。
未練がましいなんて、自分が一番良くわかっている。
それでも、どんなに見苦しくても、なかったことだけにはしたくなかった。
真摯な瞳で青年を見つめる。
紅い瞳がユダを見定めるように見据え、ややして軽やかな仕草で椅子から立ち上がった。
「では、ご同行願いましょう」
断る理由はない。
- 11.04.28